もう忘れられた人なのかもしれない。
むしろ娘さんの檀ふみの方が、広く知られているように思うが、代表作「火宅の人」だけは忘れ去られるには、あまりに惜しいと思う。当初、「火宅の人」を取り上げるつもりであったのだが、檀氏の奥様について取材し、視点を変えて「火宅の人」を取り上げた作品があると知ったのが表題の作品だった。
奥様の一人称で語られているので、沢木氏の従来のルポはかなり異なるが、面白いというか、考えさせられるものとなった。
改めて書くのもなんだが、沢木耕太郎といえば戦後を代表するルポライターであり、名作は数知れずの実績ある人である。それだけに、この作品における彼の手法には悩まされた。
はっきり言えば、沢木の考えなのか、それとも檀よそ子さんの考えなのかが不鮮明に過ぎるのだ。毎週、檀宅に足繁く通い、話し込んだ故の成果であることは良く分かる。
愛人を囲い、自宅を飛び出した檀一雄の行動は無頼派として面目躍如たるものがあるのかもしれないが、一人家を守ってきた配偶者の胸中は察するに余りあるほどのものだろう。
ルポライター沢木氏は、世間の下世話な関心に煩わされた夫人の立場に深く入れ込み過ぎた結果、沢木の主観と夫人の主観が混同してしまったかのような作品に仕上がっている。
これが未亡人である檀よそ子さんの手記ならば問題ないのだが、沢木が夫人の一人語りのような文体で書いているので、どうしても困惑を禁じ得ない。ただ、一概に否定できないのは、深く入れ込んだ仕事であるがゆえであることも分かるからだ。
この作品が私小説ならば、私は納得できる。しかし、あの問題作「火宅の人」に登場する人物のモデルに他ならぬ檀よそ子未亡人に対するルポの成果だとなると、かなり違和感を禁じ得ない。
こんな手法を用いた作品は、沢木の著作のなかではこれぐらいなものだ。沢木自身が、相当に意図的に、確信的に用いた手法なのだろう。なんとなくだが、私はこの作品を世間の恥知らずな関心から傷ついてきた未亡人への擁護論に思えて仕方なかった。
その気持ち、分からなくはないのだが、一層のこと沢木がゴーストライターとなって未亡人の手記の形をとったほうが良かった気もするのです。