ヌマンタの書斎

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戦争と報道

2015-02-03 12:25:00 | 社会・政治・一般

ジャーナリストは平和な職業だと勘違いしている人って多いような気がする。

ナャ激Iン戦争の最中だが、有名なワーテルロー会戦の直前、あるイギリスの将軍は「あの丘の向うがどうなっているかが分かるのなら、ひと財産投げ出してもいい」と嘆いた。

航空機が最初に戦場に投入されたのは、第一次世界大戦なのだが、その最初の任務は偵察であった。戦争においては、情報は勝敗を決してしまうほど価値がある。

だからこそ、ジャーナリストは戦場では警戒される。喩え武器を持っていなくても、ジャーナリストと分かれば、すぐに拘束して如何なる情報を持っているのか確認したくなる。これは戦場の感覚では常識だと云っていい。

情報は使い方次第で武器になる。これは太古以来、変わらぬ不変の事実である。如何に情報を入手するかに、戦場の指揮者たちは大いに苦労したものだ。

しかし、民主主義という変わった概念が発生して以来、情報に新たな使い方が求められるようになった。市民という有権者が適切な投票行動をとるためには、適切な情報が必要となる。その情報を提供する役目を担ったのが新聞やTVであった。

平和な時代なら、ジャーナリストの役目は政治がどのような活動をしているかを報じるだけで良かった。だが、国家の存亡がかかる戦争では、マスコミは政治の道具となる。

大本営発表に象徴されるように、当初のマスコミは戦意高揚を目的とした宣伝行為が求められた。事実を報道するのではなく、国家にとって望ましい真実を報道することがマスコミに求められた。

だが、皮肉なことに、その意図的な宣伝広報こそが、ジャーナリストの自我を目覚めさせた。新聞や雑誌がマスコミ媒体であるなら、国家の思うとおりになっただろう。

しかし、ラジオが反政府ゲリラに使われるようになると様相が変わってきた。一番決定的なのは写真の存在であった。如何に高らかに戦場の勇気を讃えようと、写真が写しだした悲惨な画像が事実を語らずとも伝えてしまった。

そうなると、戦場におけるジャーナリストは軍や政府にとって好ましからざる存在と成り得ることが分かった。それどころか、ジャーナリストに扮したスパイによる情報収集さえ行われるようになった。

戦場においては、ジャーナリストは潜在的な敵と成り得る存在である。同時に、ジャーナリストを上手く使えば、政府や軍の意図する目的を実現するために有効であることも分かっている。

現代社会において、戦争報道ほど判断に悩む情報は稀だ。何が正しくて、何がそうでないのかの判断は情報のプロでも難しい。ユーゴスラヴィア戦争において、一方的に残虐な侵略者とされたセルビアや、アフリカ内戦におけるツチ族の悲劇などはその典型である。

戦乱の地から遠く離れた平和の国である日本においては、戦場における報道の難しさは適切には伝わらない。今回のイスラム国の取材だって、本当に危険な場所で取材活動をしているのは、末端の零細なフリージャーナリストが主となっている。

日本の大手マスコミの記者たちは、安全なホテルにこもり、英文や仏文の翻訳に明け暮れていて、たまに安全が確認された野外に立って、如何にも危機感たっぷりに報道しているであろうことは容易に分かる。

彼らにとっては、今回の人質事件などは、まさに絶好の表舞台に過ぎないのだろう。それは日本国内においても同じこと。政府の足を引っ張ろとする野党の政治家の善人アピールぶりには呆れてものがいえない。

今回の人質事件と、安倍総理の中東訪問を結び付けて賢しげに批判している人もいるが、勘違いも甚だしい。如何に平和憲法を振りかざそうと、日本はイスラム国の友好国にはなりえず、徹底的に欧米の側に立っている。

それともテロリズムに資金援助をすることが平和の道だとでも言いたいのだろうか。平和ボケという言葉で片づけたくはないが、マスコミも政治家(特に野党)も、まともな戦争常識を身に着けて欲しいものです。

コメント (4)
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