ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

おかん飯 西原理恵子&枝元なほみ

2015-02-23 12:08:00 | 

困ったなァ。

一人暮らしは苦ではないし、炊事も嫌いではない。ただ、困るというより、寂しいことに母の料理の味を忘れつつある。

大学卒業後、働き出して一年とたたずに難病に見舞われて、長い闘病生活を送っている。当時から独り暮らしであり、妹が同居していても基本的に朝、昼は自炊していた。ただし、夕食だけは、自転車で数分の実家で、母の料理を食べていた。

母が私に低塩食が必要だと知っていたので、好きな味を変えて夕食を作ってくれてたことは良く覚えている。が、実のところ、この塩分を控えた食事は、母本来の好きな味ではない。

小学校や中学校の用務員として働いていたが故に、どうしても食事は味が濃い目のものとなる。これは野外での仕事が少なくないことを思えば、当然というか、身体が塩分を求めてしまう。

私も学生の頃は、ワンゲル部でのトレーニングで身体を酷使していたから、この濃いめの味付けは望ましいものであった。しかし、医者から塩分控えめを言われ、私自身もそれに納得していたので10年近い自宅療養中は、薄い味付けを母に求めていた。

母も納得してはいたが、時折本来好きな濃いめの味付けに戻ることもあり、私は時々文句を言っていた。もっとも私が再び働き出すと、やはり身体が塩分を求めてしまうので、母も塩分控えめを多少意識する程度の味付けに変わっていった。

ただ、そのうち母自身も老齢からか、塩分控えめを自主的にやっていたらしく、疲れて帰宅した私が味付けが薄すぎると文句を言った思えもある。まったく我儘な息子さんである。

そんな訳で、いわゆる「おふくろの味」というやつが、私の記憶のなかでは少々怪しくなっている。どの味付けが母のものであったのか、分からなくなっている。

ただ、貧しい時期に母があれこれ工夫していた妙な料理のことだけは、時折思い出す。

例えば蒸し食パンだ。堅くなった食パンを、蒸し器で蒸らしてバターを乗っけただけの朝食である。以前、友人に話したら、パンがビショビショでしょうと嫌な顔をされてしまった。私の記憶の中では、美味しかった料理法として残っている。

もっとも最近の食パンは、堅くなることは少ない。これはこれで、添加物の問題などがありそうだ。してみると、あの頃(昭和40年代)のパンには、パンを柔らかくしておくような添加物は入っていなかったのだろう。

他にも記憶に残る妙な料理はあるのだが、その記憶が次第に薄れていく。絶対にもう一度食べれば思い出す。それは確信しているのだが、そのもう一度があり得ぬことも分かっている。

母の手料理という奴は、案外と癖のあるものが多かったように思う。主婦の知恵というか、土壇場の機転とでもいおうか、はたまた苦し紛れとも言いたくなるような料理もあった。でも、不味い料理はほとんどなかったと思っている。

でも、忘れがたいのは入院する前日の夜に作ってくれた最後の料理。既にギラン・バレー症候群の兆候が出ていて、身体が不自由だったのに無理して作った鍋料理。

あれほど不味かった料理ははじめてだった。怒るよりも呆れてしまい、相当に体調が悪かったことが分かり、すぐに寝るように母に言った。片づけをしながら、無理することはないのにと安易に考えていたことが悔いとして残る。

もしあの時、病院に連れて行っていたら・・・そう思うと無性に悔しい。あの時は過労からくる風邪ぐらいにしか思っていなかったのだ。母の最期の手料理が、あの不味かった鍋である。不自由な体で無理をして作ってくれた鍋でもある。私は生涯あの鍋の味だけは忘れないだろう。

表題の本は、仕事をかかえつつも二人の子供を育てた母である西原理恵子が、料理家の枝元女史の指導を受けながら覚えた「おかん飯」のレシピ集だ。あの恨ミシュランの西原の初の料理本でもある。

あんな料理出されたら、育ち盛りの子供はたまらんぞと思う一方、楽しく読ませてもらった。多分いくつかは私も実際に作ってみようと思っている。

コメント
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