なにを食べようと自由である以上、なにかを食べない自由もある。
日本ではベジタリアンと総称される菜食主義にも、いろいろある。肉食を避けるための健康志向の菜食主義もあれば、宗教的な理由であったり、生命保護の観点からの菜食主義もある。
如何なる考えに基づこうと、それは自由だとは思うのだが、私は植物だって命であり、生き物である以上、生命を奪うのを避けるといった趣味的な菜食主義には、いささか懐疑的である。
なぜかと言うと、植物にだって生きようとする意志があると信じているからだ。根っこを残せば良いと言った問題ではない。確かに根を残せば、再び生えてくるのは確かだが、植物がそれを喜んでいるとは思えない。
あれは大学生の頃だった。夏は暑いので、山に登るとしたら標高3千メートル級の高山か、さもなければ沢登りが中心であった。日数が必要な高山と異なり、沢登りは日帰りも可能だ。
緩やかに登る林道が途切れる辺りから、沢筋に入り込む。沢が次第に傾斜がきつくなり、流れる水量こそ減ってくるが、その勢いは増してくるあたりが面白い。
ビブラム底の登山靴では滑りやすいので、沢に入るまでは踵の高いスポーツシューズで登ってきたが、沢に入るあたりで草鞋に履き替える。あの頃は、既に化学繊維の草鞋が出回っていたが、やはり本物の草鞋のほうが水に馴染み易く、滑りにくい。
馴れた人は素足で履くらしいが、軟弱な都会人の足では無理なので、足袋は必携だ。もっとも足袋といっても、底がゴム底状の丈夫なもので、私たちは土方足袋と呼んでいた。
水に浸けて馴らした草鞋は、苔むす沢沿いの岩の上でも、容易には滑らない。沢筋は空気がひんやりしているし、日差しは木々の梢に遮られるので快適に登れる。
ただし、虫よけのクリームを事前に塗っておくことは必携だ。関東界隈の沢はそうでもないが、上信越の沢だと刺すと痛い蚊やブヨがうようよいる。また軍手もしておいた方がいい。沢筋の岩肌は鋭くとがっていることが多く、知らぬ間に手は傷だらけになるからだ。
傾斜がきつくなると、やがて滝が現れる。ここで滝を直登するか、あるいは巻いて避けるかの判断が大切だ。沢登りの事故の多くは、この滝界隈で起きることが多い。
登れると判断したら、なるべく直登してしまう。水しぶきが心地よく、下手に巻くよりも時間短縮できるし、巻いて避けても、その道は決して安全ではない。ただ、岩登りの技量がないと、滝の直登は難しい。
以前、ある沢の滝を直登していたら、岩棚で涼んでいた青大将をつかんでしまったことがある。ヘンな感触ですぐに気が付いたが、蛇も慌てたようで、噛みついてきたが、幸い軍手の上からなので、怪我は避けられた。
すぐに投げ捨ててしまったが、ザイルで確保されていなかったら、危なかった。慌てた私も、バランスを崩して落下したが、ハーケン一本でぶら下がった状態で助かった。このような場合、精神的なショックのほうが怖い。
滝を上り詰め、沢をどんどん詰めていくと、沢の幅は小さくなり、やがて草むらに消えていく。さて、これからが大変だ。まともな登山道などないので、獣道を見つけて、尾根筋にぶつかるまで、ひたすら草むらを掻き分けて登る。
草むらといったが、実際は藪であり、その藪を両手で掻き分けて歩く。その様は、まるで藪を漕いでいるようなので、通称藪漕ぎと言われている。
沢筋は気持ちよいが、この藪漕ぎは苦行難行である。慣れてくれば、上半身をふりふり、ゆるやかに藪の中を進むことが出来るのだが、非日常的な動きなので、かなりの肉体的負担がかかる。
コツは、藪の中の草の根っこを、上手く踏みつけて草を唐オながら進むことだ。これは理屈云々よりも、身体で覚えるしかない。こうして書くと、簡単に思えるかもしれないが、実際は悪戦苦闘することになる。
私は藪漕ぎをするようになって、植物にも意志があるものだと知った。植物の多くは、上を目指して伸びていく。それを妨げるものには、断固として抵抗する。藪漕ぎをしている最中、汗と埃にまみれながら、私は周囲の藪を構成する植物が、私に敵意をもっているのではと思うことが多かった。
まるで草木が意志をもって、私が進みたい方向を妨げるかのような動きをする。最初は錯覚だと思っていたが、やがて確信に変わる。間違いなく、藪の中の草木は私を敵だと見做している。
そうでなければ、これほど藪漕ぎに苦労するはずはない。疲労で意識が困惑しているのを自覚していたが、草木の敵意に不感症でいられるほど鈍くはない。その疲労と困惑が頂点に達した頃、するっと藪を抜けて、尾根道が目の前に現れる。
この時の感激は、山頂に上り詰めた時よりも大きい。なによりも解放感が素晴らしい。冗談抜きで、これほどの悦楽を得られる機会は、そうそうないと断言できる。喩えていえば、刑務所を脱走した囚人が、安全な隣国に到着したようなものかもしれない。
後は、尾根道をひたすら下り、林道まで降りて、バス停で帰りのバスを待つだけだ。手足は傷だらけだし、虫刺され、草汁によるかぶれもあるが、心地よい疲労と空腹は、決して悪いものではなかった。
だが、ここで油断してはいけない。
これは、私だけかもしれないが、藪漕ぎをやった日の夜は、なぜか寝苦しいことが多かったからだ。普通は疲労からすぐに寝付く。ところが、藪漕ぎをした夜は、妙に寝苦しい。目を閉じても、藪の風景が脳裏に浮かんで離れない。
私が踏みつけ、叩き折り、薙ぎ払った草木の恨みが、体内に残っているような錯覚に陥ってしまう。白状すると、私は藪が浮ゥった。なにが出てくるか分からない恐浮ニ、いくら押し進んでも、終わりが見えない徒労感が辛かった。
不思議なことに、この藪漕ぎの苦悩は、春から夏に限定される。晩秋から冬にかけての時期だと、同じ藪漕ぎでも、そこには陽だまりの温もりがあったり、静寂な空気に癒される。
この違いは、草木が成長する時期と、枯れていく時期の違いだと思う。私は冬に雪があまり積もらない低山を登るのが好きだった。一面、枯れ野原の草原が冬の日差しに輝く風景が好きだった。
反面、春から夏にかけては、草木が生え拡がり、生い茂り、息苦しさを感じるほどの圧迫感があって、藪はもちろん、草原さえ歩くのがきつかった。この感覚は整備された登山道しか歩かないハイカーには分かりづらいと思う。
私は草木にも意志があると信じている。その意志を踏みにじり、押し唐オ、なぎ唐オたからこそ、私は藪が苦手だった。だから、私は命を奪わないと語るベジタリアンに違和感を禁じ得ない。
草木の生きる意志は強く激しい。アスファルトの小さな割れ目から芽吹き、成長するにつれて、その割れ目を広げて、最後はアスファルトを崩壊させるほど、草木に生きる力は逞しい。自然の力を舐めてはいけないと思うのです。