ヌマンタの書斎

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千代の富士の死

2016-09-07 12:22:00 | スポーツ

良くも悪くも番長であったと思う。

昭和の大横綱と呼ばれた千代の富士が亡くなったのは、既に既報のとおり。まだ十分に若い年齢での死であったし、後進の指導、相撲協会の改革など、やるべきことは沢山あっただけに残念な訃報であった。

ただ、私の千代の富士に対する評価は、いささか複雑である。

何故かというと、この人の取り組みには、胡散臭いものが少なくなかったからだ。八百長というか、怪しい相撲がけっこうあった。もちろん、素人に容易に分かるはずのないものであり、私が怪しんだ取り組みも、一見すると普通の勝負である。

では、何故に怪しいと思うかというと、一言でいえば落差である。これは私も断言するが、千代の富士は本当に強い力士であった。喧嘩根性の強さというか、相手を叩き潰すような怖さを持った実力派であることは間違いない。

それが分かるのが、千代の富士が嫌ったり、警戒している相手との取組である。天敵というか、大嫌いだったのが、巨漢力士の大乃国であった。千代の富士の54連勝を阻んだのが、他ならぬ大乃国であった。あの試合における凄まじいまでの迫力は、今も忘れずにいる。

大乃国自身も、千代の富士を嫌っていたようで、絶対に連勝を阻止してやるとの意気込みが傍からも見て取れた。対する千代の富士も、闘志満々の気迫溢れる土俵であり、意地と意地のぶつかり合いであった。

あの時の負けた後の千代の富士の、土俵上の大乃国を睨みつける目線には戦慄を覚えたほどだ。よほど悔しかったのであろう。この負けん気の強さこそ、千代の富士の強さの根源であった。

また、白いウルフと呼ばれた益荒雄に対する厳しすぎる相撲も、私には忘れがたい。容姿端麗で、恵まれた体躯の持ち主で、人気急上昇のこの若手力士を千代の富士は徹底的に嫌った。

千代の富士の子分といってよい保志や、逆鉾らが益荒雄を稽古場でも痛めつけた。そのせいで、この若手の人気力士はすぐに引退してしまった。やはり、人気力士であった寺尾も、千代の富士にガチで勝負を挑んだが、土俵上で抱え上げて叩きつけて、その怖さを見せつけた。自分よりも人気が出る力士の存在を、決して許そうとしなかった。

ただ、寺尾は子分の逆鉾の弟であり、そのせいで潰されることはなかった。千代の富士は、その全盛期に於いて、文字通り土俵上の番長であったと思う。間違いなく強かった。それでいて、八百長相撲の噂が絶えなかったのは、小兵力士であったからだと思う。

角界入りした頃の千代の富士は、本当に線の細い青年であった。その痩身に筋肉を分厚くまとい、鍛え上げた努力家ではあったが、小柄のハンデは確かにあった。そのために、彼は自分よりも弱いと考える力士に、八百長相撲を持ちかけて、勝ちを確実なものにしていたと云われていた。

弱い力士だって、奇襲をしてくれば難儀する。特に巨漢力士との、本気のぶつかり合いは、小兵力士にとって極めて危険性が高い。だから、不意の怪我を恐れて、無理しないため、彼は八百長相撲を持ちかけていたらしい。

だが、晩年に至り、名門のバックを持つ人気力士、貴花田には八百長相撲は断られた。全盛期の千代の富士なら勝てた相手かもしれないが、既に体力の衰えが出ていたため、本場所で負けてしまった。

これで、彼は心が折れて、引退を決めたとされている。

正直言うと、私は千代の富士の強さは認めていたが、名力士だとは考えていなかった。だから、その引退には、けっこう醒めた気持ちでいた。

土俵番長であった千代の富士は、引退後、自分の部屋を持ち、後進の指導にあたったが、彼の第二の戦いは、ここから始まる。この問題を書きだすと長くなるので、今回は書かない。

ただ、言えるのは、この第二の戦いにおいて意思半ばで亡くなってしまった。このことは、たいへん残念に思います。彼の遺志を継ぐ人が、はたしてどれだけいるのか不明ですが、私は今後も注意しておくつもりです

コメント (1)
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