小説やTVドラマ、映画、漫画などで作られた姿は、必ずしも実像を示さない。
今もその名を知らぬ者はいない名門企業である三菱の創立者である、岩崎彌太郎はその典型ではないかと思う。明治の政商として知られており、どちらかといえば悪役であろう。嫌われるほどに儲けた悪徳商人としてのイメージが強い。
これは、TVドラマなどの影響からだと思う。特に人気の高い幕末の志士を扱ったドラマでは、どうしても好意的には描かれ難い。特に司馬遼太郎の作品で、脇役として登場したことの影響が大きいように思う。
表題の作品では、彌太郎の日記をベースに、実像に迫ろうとしている点が、大変に好ましい。すると、見えてくるのが、従来の岩崎彌太郎像とは異なる姿である。
海援隊の影響を受けて、海商としての道を歩み出したとされる従来のイメージは脆くも崩れる。彌太郎の真の望みは、土佐藩に仕えることであり、大政奉還後は明治新政府に仕えることを望んでいた。
しかし、英語などが出来ない癖に、海外の商人たちと対等に交渉できる彌太郎を土佐藩は貴重であり、他に替え得る人材がいないがゆえに、九十九商会に縛り付ける。
それは維新後も変らずで、盛んに新政府への仕官活動を試みるも、その異端の交渉力を買われて、相も変わらず商館に据え置かれる。遂に耐えかねた彌太郎は、民間の会社として独立するに至る。
もっとも後年の評判とは裏腹に、この時期までの彌太郎は豪商には程遠く、いつも資金繰りに奔走する赤字企業の経理部長そのものである。また彌太郎が妓楼遊びを多くしたのは確かだが、その遊び方は一筋縄ではいかない強かなものだ。
将来の顧客、有力な人脈になると見込んだ人物を妓楼に誘い、遊ばせて、翌朝まで面倒を看る。しかし、彌太郎本人は夜中に抜け出して商会に戻り、仕事をしている。
彼が妓楼遊びを好んだのは事実だが、決して遊びに呆けることはなかった。この接待攻勢で結果を出して、苦しい資金繰りを乗り切った。英語などの読み書きはおろか、会話さえまともに出来ないにも関わらず、持ち前の押しの強さで外国人と交渉し、粘り強く折衝して成果を出す際にも、彼の接待攻勢は有効であたようだ。
ちなみに、彌太郎は外国語能力こそ乏しいが、漢学、国学等の素養は十二分にあり、江戸に遊学を許されるほどの知識人である。日記も漢文により記されている。単なる馬力だけで仕事をこなしていた訳ではない。
私が表題の書を読んで感じたのは、岩崎彌太郎が決して顔表に出さなかった心情である。下級藩士であった彌太郎を引き上げ、土佐藩の商会の営業、経理担当者としたのは、後藤象二郎である。
後藤と彌太郎は、付かず離れずで、明治維新後もその関係は続くが、最後まで後藤は、彌太郎の望みである仕官に応じなかった。九十九商会の仕事に縛り付けて、彌太郎の希望を踏みにじった。
他に替え得る人材がいなかったこともあるだろうが、それにしたって酷い処遇だと思う。にもかかわらず、彌太郎は後藤との関係を継続させている。後藤に対して恨み言や、怨念を抱いたかのような言動はみられない。
それどころか、放漫な浪費家である後藤の遊びにも十二分に付き合っている。何故にそこまで耐え忍んだのか?
実のところ、岩崎彌太郎が大儲けしたのは、明治に入ってからだ。財政悪化に悩む諸藩が発行していた藩札は、当然のように暴落していた。不満を抱え込んだ諸藩を抑えるために、明治新政府はその藩札を買い取ることにした。
この情報を事前に知った彌太郎は、藩札を安く買いたたいて集め、それを明治新政府に売りつけてぼろ儲けをした。その情報を彌太郎に流したのが、他ならぬ後藤である。
その後、彌太郎は九十九商会を貰い受けたばかりでなく、安く船を買い入れ、海運業で大儲けをしたが、その際にも後藤との関係が有利に働いていた。彌太郎は暴利を貪ったとされ、明治新政府に集る強欲な政商としての悪名を確かなものにする。
これこそが、彌太郎が後藤らの横暴に対して返した最大の仕返しではないだろうか。彌太郎はその後も、政商として悪辣に儲け、ライバルを蹴落とし後の三菱財閥の基礎を築き上げる。
興味深いことに、蹴落としたライバルたちをパーティに招き、礼を尽くして歓待している。自分を追いやろうとしたライバルとつながる政治家たちとも敵対することは避けて、むしろへりくだったりしている。嫌味や意趣返しかと思いきや、その後も商売上の付き合いにつなげているから、一筋縄ではいかない男である。
そのあたり、商人の鑑ではないかと思わないでもない。横暴な独裁者としてのイメージが強い彌太郎だが、実際には屈辱に耐え、夢を踏みにじられ、それでも頭を垂れて仕事に邁進してきた。
彼が耐え忍んできた苦労を思えば、その後の政商としてのぼろ儲けもその代償であったのかと納得できる。
余談だが、私の母校はこの岩崎彌太郎がスポンサーとなって設立されている。そのせいで、同期はもちろん、先輩、後輩にもやたらと三菱系の企業に勤めている連中が多い。
そのくせ、岩崎彌太郎に関しては無知であった。灯台下暗しというか、もっと在学中に調べておけばよかったと思ったほど興味深い人物でしたよ。