日本の国土の7割は山間地である。
いくら道路を伸ばしても、山間部のすべてに舗装された道路を敷設することは事実上不可能だ。技術的には可能だろうけど、使われることが極めて少ないと予め分かっている以上、無駄な予算はかけられない。
その結果、山間部の農地には道路がなく、人の足で通うしかないことは珍しくない。収穫はもちろん、農薬の散布、肥料の散布は、背中に背負ったタンクから、手押しのポンプでやっている。これは大変の労苦である。若くても大変だと思うが、それをやっているのは高齢の農夫である。
山間部の農村は、おしなべて過疎化が進んでおり、若い農家はごくまれな存在である。結果として、農地は放置され、野草が生い茂り、遂には木々が育ち、もはや農地ではなくなる。
云うまでもなく、日本は食料の大半を輸入に頼っている。にもかかわらず、全国の放置された農地の面積は九州の耕作面積に匹敵するほどである。
農地だけではない。住宅地に散見する、人が住まぬ家屋は増えるばかりである。人が住まない家は、なにもなくても荒廃する。近所に一軒、荒れ果てた空き家があると、ゴミを不法投棄されたり、怪しい人間が棲み付いたりして、気が付くとスラム化していることもある。
既に都内でも9軒に一軒は空き家だと云われている。地方はもっとひどい。特に交通の不便な場所などは、空き家だらけである。相続しても住む気もないし、売りたくても買い手がつかないので、名義変更さえしていない不動産は、日本各地にある。
高齢化が進む一方で、少子化が進むことで、このような使われずに荒れ地と化す農地、朽ち果てた家屋は増える一方である。
だが、ほとんどの日本人にとって荒れ地が増えようと、空き家が崩れようと、それは他人事に過ぎない。そう思っている人が大半であろう。しかし、これは少子化により社会が荒廃する前触れに過ぎない。
少子化で本当に怖いのは、社会の仕組みが維持できなくなることだ。
それは既に始まっている。
日本は戦後の高度成長により国内に膨大な金融資産を蓄えている。それゆえに、経済が縮小しても喰うに困らない現実が、社会の仕組みが崩れゆくことを押し隠している。
働くなくても親の残した財産を食いつぶせば、生きていける若者は、自ら汗を流して働くことをしない。少子化で若い働き手が減少しているだけでなく、働く意欲そのものがない若者が、既に相当数実在する。
にもかかわらず、働き手を必要とする社会の仕組みが、徐々に悲鳴を上げている。介護の現場は既にそうだし、土木、建設業でも同様だ。立ち仕事は嫌がられて飲食業でも人手不足は深刻である。
公務員という錦の御旗があろうと、清掃やゴミ回収などは若い人が次第に減ってきている。ましてや、民間の廃品回収業などは、もう若い日本人には期待できず、高齢者と不法、違法を問わずに外国人に頼っている。
大手の企業は、まだまだ日本人中心だが、社会の末端で必要とされる零細企業では、仕事を維持するために外国人雇用は避けて通ることができないほど追いつめられている。
外国人労働力の流入に警鐘を鳴らず方々が、よく云うロボットの導入や、ITの活用が決して無駄だとは云わない。でも、全てを賄うほどの対応策はない。やはり人手に頼らざるを得ない分野は多い。
やはり、なんらかの形で合法的に、かつ日本社会に受け入れやすい外国人労働力を受け入れる必要はある。
一番ダメなのは、なし崩し的な受け入れだ。せっかく導入した外国人労働者に不満を抱かせ、社会不安を増やすことになることは、欧米をみれば分かること。飴と鞭とは言わないが、日本人と外国人、双方がある程度納得して受け入れられる受け皿を作らないと、どちらにとっても不幸な結果になる。
これは、お役所まかせではいけない。まず、間違いなく失敗する。受け入れ先の現場と、そこで働く外国人、日本人、双方からの意見調整が必要不可欠となる。これは役所の会議室では出来ない。会議室で話される、きれいごとだけでは事態が掌握されないからだ。
現場からのボトムアップと、行政からの指導による摺合せが重要となる。その調整は、まさに政治の仕事となる。
ところが、この政治が大問題である。幕末の攘夷運動にも似た感情論がまかり通るか、毒にも薬にもならない会議だけが続けられている。関心を持つ政治家がいるだけマシで、相も変らぬ打嶋タ倍政権に傾唐オているだけの政治屋も多い。
もう既に少子化の波は日本社会を襲いつつある。ぬるま湯につかった蛙が茹だって死を待つような馬鹿げた対応をしている場合ではないと思います。