ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

孤立化する社会

2018-06-22 12:01:00 | 社会・政治・一般

私には故郷がない。

今、住んでいる街には30年以上になるが、近所に友人はいない。高校卒業後に引っ越してきたのだが、当時からあまり家に居つかなかったせいで、近所との交流が極めて少なかった。

幾人か、地元の自治会で知り合った方はいたが、ある不祥事事件が起きてからは疎遠になってしまった。また引っ越していなくなった方も多く、私なんぞ古株になっている。そのわりに、周囲と親しくしている訳でなく、日中は不在のいつも居ない人扱いである。

私が故郷に近い感覚を持っているのは、小学校から高校までを過ごした三軒茶屋の街なのだが、ここもバブル期前後の再開発でクラスメイトの大半が今は住んでいない。再開発のせいで、私が隠れん坊や、缶けりをした公園も広場も今はない。

よく遊びにいった友人の住む長屋や、オンボロアパートもなくなり、見覚えのない瀟洒なマンションが立ち並ぶばかりである。これでは知らない街と同じである。

今、住んでいる街は、閑静な住宅街でもあるが、かつては住民運動の盛んな地域であったこともある。つまり左派系の市民がけっこう住んでいる。そして、私は左派系の市民運動家を嫌っているので、ますます地元が縁遠くなっている。

それでもさすがに30年以上住んでいると、いろいろと見えてくるものがある。

その青年に気が付いたのは、私が20代の病気療養中のことだ。長期入院から自宅安静に変わってからも、病気が治ったわけではなく、ただ安静に過ごすだけの日々は、身体よりも心を鬱屈させた。

削げ落ちた筋肉からも体力が落ちていることは自明のことだが、それ以上に医者から注意されていた免疫力の低下に悩まされた。ベランダで洗濯物を干している最中、少し冷たい風に吹かれただけで、夜半には発熱する。

これではまともに外に出ることさえ難しかった。でも、家に籠っていると心が腐ってくる気がして、怖くて無理やり外に出るように努めていた。あの頃は、寝ても覚めても、考えることは自分の朽ち果てた身体のことと、治るあてのない不安で気が狂いそうであった。

だからこそ、気分転換に外に出たかった。それさえも自由にならないことが、殊更私を苦しめた。私が外出するためには、防寒着に身を固め、外からの影響を出来るだけ受けない服装であることが必要だった。

それは、見た目にはかなりヘンであったと思う。だから近所の実家に夕食を食べに行く時も、人気のすくない時間を見計らってからにしていた。人通りの少ない裏道を選び、短時間の外出を済ませていた。

だからこそ、その青年に気が付いた。彼もまた人目につかないような時間に動き回っていた。ただし、かなり目立つ外見ではある。派手な上着とズボンの色の組み合わせは、お洒落からは程遠く、むしろ奇矯でさえあった。

その外見だけでなく、小太りで、背筋を丸くした姿勢でいながら、ノコノコと歩くのだが、いつみても一人であった。ヘンな人だと思ったが、私もイイ年して家に籠っているヘンな人だったので、人の事はいえない。

何回か見かけたが、彼の歩く道は、近所のヤンキーたちがいそうもない場所ばかりだと気が付いた。実は私の住む街は、わりとヤンキーが多い。それもそのはず、その地元のK中学は、世田谷では私の母校であるS中学、東京一のマンモス中学K中と並ぶ3悪中学であったからだ。

私は中学では成績劣等ではあったが、外見上は不良、つまりヤンキーではなかった。でも彼らとはわりと仲が良かったので、苦手意識はない。引っ越してからだが、地元のヤンキーに何回か目を付けられ、絡まれたこともある。でもS中出身で越してきたと挨拶すると、大概乗り切れた。

ヤンキーと称される若者たちとの距離の取り方というか、接し方は多少心得ていたし、私は彼らが嫌いではなかったので、身体が回復してからは、街で会うと軽く挨拶していたくらいだ。

でも、悪い子から抜けて真面目っ子に転身した者として、ヤンキーの兄ちゃんたちと仲良くなることは避けた。これは、かつての遊び仲間たちへの義理のようなものだ。

自宅の近所には、公園が多く、夜半になると、彼らヤンキーの兄ちゃん、姉ちゃんたちがよく集っていた。私は軽く目礼して、その場を通りすぎていたが、件の不思議ファッションの青年は、絶対に近づいてはこなかった。それどころか、遠回りして避けていたのを見かけた。

あァ、やっぱりなと思った。率直に云わせてもらうと、イジメを受けやすい人間は確かに存在する。件の青年は間違いなく、いじめっ子を惹きつけるオーラのような雰囲気をまとっていた。多分、子供の頃からいじめを受けていたのだと思う。

だからこそ、いつも一人であった。イジメっ子気質が濃厚なヤンキーの兄ちゃんたちを避けるのも、彼なりの生き方なのだろう。その後、身体が少し回復して、近所の図書館などに足を運ぶことが出来るようになると、しばしばその青年を見かけるようになった。

本来ならば社会人として働いていて然るべき年齢だと思うが、なぜか彼は働いているようにみえなかった。そのわりに、外で見かけることが多く、実に謎多き人物であった。

丁度、その頃自治会の役員を引き受けたので、会合に時々出席すると、件の青年の話が出たことがある。当時、あの「連続幼女殺人事件」として知られた宮崎某の影響もあり、自治会でも見回り活動をしていたなかで、その青年がやり玉にあがっていたからだ。

しかし、長年住んでいるある年配の女性から、彼は母子家庭の子で、身元ははっきりとしていること。いじめで登校拒否に陥り、今はフリースクールに通って大検を目指していることなどが知らされた。驚いたことに、私より少し年下であった。外見からは、もう少し上だと思っていた。

一応納得したが、幾人かの役員は、それでもあまり好意的には捉えていないようだった。多分、ロリコンではないかと疑われていたのだと思う。黙っていたが、私の見立てでは、おそらく彼は対人恐怖症に近いのであろうと思っていた。

自宅安静時、私はよく公園で読書などをしていたが、その時件の青年を見かけたことはしばしばあった。でも、公園で無邪気に遊ぶ子供たちに近づくような素振りはまったくなく、むしろ敬遠しているように思えた。多分、子供にもかまわれるのが嫌だったように思う。

ある日の夕方例によって奇妙な服装で出歩いていた青年は、公園などにたむろしている若い女性のヤンキーたちを見かけた途端に、急に足を速めて逃げ去っていたくらいである。その時、私は街灯の下で、自転車の分解掃除をしていたのだが、あの青年が早歩きが出来るのだと知って驚いた。いつも、のんびり歩いていたからだ。

私の知る限り、青年のそばに居た女性は、母親とそのご近所のご婦人たちだけではないかと思う。いずれも中高年であったが、その時だけ青年は落ち着いた笑顔をみせていたように記憶している。

あの頃も、そして今も私は彼と会話を交わしたことはない。それどころか、目を合わせたことさえない。彼は非常に臆病で、かつ過敏であるようで、目が合いそうになると素早く逃げる。私が彼を対人恐怖症ではないかと思わざる所以である。

あれから20年以上たった。青年は付きだした腹が目立つおじさんになり、髪に白髪が目立つようになった。私が帰宅の途上、地元の駅で降りて改札を出たあたりで、たまに見かけることがある。

相変わらず奇矯な色合いの服装が目立つが、それ以上に老けた印象が強い。そして今も一人で、のこのこと出歩いている。もう母親の姿を見かけることはない。確認した訳ではないが、おそらく母親の残した家に一人で暮らしているのではないかと思う。

先日、自治会の元会長ら長老たちが集まり、民生委員の方と孤立している一人世帯に関する相談していたと聞いている。実は私にも声がかかったが、所用で欠席したので、その話し合いの結果はよく知らない。

高齢化した一人世帯の孤立化が問題となっているのは、ここだけではあるまい。近所との交流がないか、極めて少ないので情報が乏しい。既に孤独死は数件発生している。どこが単身世帯なのかさえ、分かっていないのが実情だ。

それは、おそらく日本全国で起きていることなのだと思う。孤立化して連携のない街は寂れると、荒廃してますます過疎化が進む。過疎化は貧困化であり、同時に犯罪多発地帯へ容易に変貌する。

高齢化社会は既に進行中であり、その結果としての社会の荒廃も既に始まりつつある。これは、かつて日本が経験したことのない未曾有の事態でもある。私自身、他人事ではない現実でもある。

一人で死んでいくのは自由かもしれない。でも、立つ鳥跡を濁さずというが、私は自分の死後を濁さずに終える事が出来るだろうか。いささか心もとないのが実情だ。元気なうちに、身辺整理の準備を始めるべき時が来たと考えております。

コメント (2)
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