梅雨が始まる前は、案外と気持ちよい晴天の日が多い。
十数年前のことである。その日も風はそよやかで、日差しは柔らかい、とても気分の良い日であった。だが、昼食を終えて事務所に戻り、お茶を飲みながら仕事の手順を考えていたら電話がなった。
すぐに出ると、いきなり怒鳴られた「なんで来ないんだァ~!」
誰だ、この人。声の感じからすると、顧客のA親方ではないかと思われた。はて、約束なんてしてないぞ。
妙に思い、とりあえず先方の言い分を聞いてみる。が、どうも支離滅裂である。挙句に最後は泣き出してしまった。どうなっているの?
急遽、A親方の元に行くことにした。
上手く急行に乗れれば、一時間かからずに着く。工場にいってみると、雰囲気がヘンだ。いつもはパートのおばちゃんたちの笑い声が絶えない、とても賑やかな工場なのだが、まるでお通夜みたいに静まり返っている。
奥の作業場に行くと、何事もなかったかのようにA親方が仕事をしている。いつものようにニコニコとしている。あれ?さっきの電話は、なんだったのだ。
妙に思い、トイレを借りると言って、自宅のほうに行くと、奥さんがなにか言いたげに私を見つめている。やはり、なにかあったのだろう。ただ、自宅と作業場の距離が近く、内緒話は無理だ。
取りあえずA親方の話を聞いて、来月の訪問を約束してその場を立ち去る。その時、奥様にメモを渡しておく。駅前で待つこと数十分。買い物姿の奥様が、待ち合わせの喫茶店に現れた。
そこで事情を聞いたところ、三週間前からA親方の様子がおかしいようだ。奥様は若年性痴ほう症ではないかと疑っているようだ。私もそう思わないでもないが、ここで素人判断は禁物と思い、こちらでも調べてみますと言っておき、事務所に戻る。
事務所に戻ると、幸いにもS先生が居たので事情を説明する。少し沈黙した後、もしかしたら、それは脳の病気ではないかと言い出し、顧問先の内科医のB先生に電話をしてみると言い、すぐに連絡をとった。
その後の展開は早かった。B先生は至急、脳のCTを撮ることを求めてきたので、その日の夜、S先生とA親方の自宅に赴き、嫌がるA親方を引っ張り出して、近くの救急病院へ連れて行った。
一旦、私らは近くのレストランで夕食をとり、数時間後に病院へ行くと、入院どころか緊急手術が始まっていた。なんと脳梗塞であったようで、奥様が脱力したかのように長椅子に倒れ込んでいた。
手術は上手くいったようだが、その際に脳腫瘍も見つかり、入院生活は長引いた。長い入院生活を嫌がったA親方は、半ば強引に退院したが、自宅では酒に逃げて最後は自殺に近い形で交通事故を起こして死亡。酔ったまま、バイクで壁に突っ込んでの事故だから、自殺を疑われても仕方ないものであった。
今から十数年前の事である。守秘義務があるので、フェイク相当入っていますが、概ね事実に基づいています。
私も当初は痴ほう症だと思っていました。病院通いの長いS先生は、いろいろと病気絡みのトラブルを知っていたので、すぐに脳の異常を疑ったそうです。
過ぎたことですが、もう少し手術が早ければ、リハビリも楽だったはずだとの話を奥様から聞かされました。勝手に痴ほう症だなんて素人判断をしたことが、あの人の寿命を縮めてしまったのでしょうと奥様に泣かれた時は、慰めようもなかったです。
情報が溢れる現代社会だからこそ、素人の思い込みにる結論は危険なのだと痛感した事件でした。棚の上にあった過年度のファイルを整理していたら、たまたま出てきたA親方の最後の申告書を見て思い出した次第です。