希代の柔道家、それがコンデ・コマこと前田光世だ。
嘉納治五郎が柔術を柔道として改め、その普及に努めていた明治の頃、青森から上京した青年が前田であった。講道館に入門し、徐々に実力をつけ、アメリカ遠征に加わったことが転機となった。
アメリカ、ヨーロッパ、中南米と世界を渡り、各地で試合をし続け延べ2000試合をこなしたという。柔道着を着たジャケット・マッチでは無敗であり、他流試合ではプロレスラー、ボクサーと様々な格闘家と戦ったとされる。
そんな世界を股にかけた柔道家を取り上げ、改めて世に知らしめたのが表題の作品だった。週刊ヤング・サンデー誌に連載されていたが、当時日本の格闘技の世界では、ブラジルから来たグレイシー柔術が圧涛Iな強さで席巻していた。そのグレイシー柔術の原点が、前田光世がブラジルで開いた柔道場から産まれたものだとは、私も知らなかった。
ブラジルには戦前に日本人が多数渡っていたので、そこで日本人が柔道教室を開き、そこからグレーシー柔術が産まれたのではないかと適当に勘繰っていた。ただ、1990年代に現れ、世界中の総合格闘技の大会を制覇したグレイシー柔術は、柔道とはかなり異なる武術に思えたので、変り過ぎではと苦笑していた程度の知識しかなかった。
なので、私は表題の漫画を読んで、前田光世を知り、その格闘技術が相撲、古流柔術、そして講道館柔道をベースとし、世界を股にかけた戦いの中で、対ボクサー、対レスラーなどの経験を得て変化したのだと知った。
率直に言って柔道の姿を、グレイシー柔術から見出すのは難しい。しかし、前田が基礎を伝え、その後木村政彦が柔道の厳しさを伝えて、さらに練り上げられたグレイシー柔術には、確かに柔道の遺伝子、武道の精神が息づいているのだと思う。
ただ表題の漫画は、少し盛り過ぎだとも思うが、大変に面白いので私としては許容範囲ではある。
もっとも私が前田を希代の柔道家だと評するのは、格闘者としてのものではない。一概に彼のせいだとは云わないが、前田は柔道の伝道者としては、あまり優秀とは言いかねる。
アメリカでもヨーロッパでも、そして南米でもあまり柔道場の普及には成功していない。多分、教えるのは、そう上手い人ではなかったのだろうと想像している。
でも、これだけは言える。たとえグレイシー柔術が世界に名を轟かせなくても、前田光世の名前はブラジルの地に堅く刻まれていると。彼はブラジルに移ってからは、柔道よりも日本人のブラジル開拓事業への協力に傾唐オていた。
最初は格闘者としての名声を頼った日本人開拓団の手伝い程度であったが、ブラジルのジャングルに苦悶する同胞の姿が、前田の魂に火を付けた。その後は、日本の外務省の嘱託として、日本人開拓団のブラジルでの事業に積極的に関わり、遂にはブラジル国籍まで取得し、かの地で人生を終えている。
伝えられる彼の今際の言が私の胸を打つ。
「日本に帰りたい、青森の水が飲みたい」
実のところ、ブラジル開拓事業は上手くいってなかった。それを恥じた前田は、度重なる帰国要請にも首を振り、病に唐黷驍ワで開拓事業に奔走していた。それでも郷里を想う気持ちは強く残っていたのだろう。
今日、ブラジルにおける日本人の存在は、開拓団の成功とも相まって非常に評判が高いと聞く。だが、その成功の影には、前田のような数多くの失敗者がいたのだろう。だが、その失敗を糧に、かの地で日本人は成功を収めた。そのことは、忘れずにおきたいものだとものです。