幼い頃から日本共産党とは縁が深かった私だが、未だかつて選挙で共産党に投票したことはない。
だが忘れることが出来ないため、わりと共産党の動向には注意を払っている。
つい先週のことだが、志位委員長が政府高官の発言に激怒していたとの報道があった。志位氏にとっては、日本共産党は平和を目指し、平和を守る政党であるのだから、いつまでも危険視するのはおかしいと怒っている。
その報道を読みながら、私としては、どっちもどっちでしょうとため息つくしかない。
私が共産党の人たちと知り合ったのは小学生の頃だ。私が足繁く通っていたキリスト教の集まりの若手の多くが、共産党の下部組織である全学連や、民青のメンバーであったことから、自然と関心を持つようになった。
早く大人になりたかった私にとって、子供の私に日本のあるべき未来の姿を語ってくれる若者たちは憧れの存在であった。その頃、すなわち昭和50年代は、日本共産党が最も勢力を持っていた時代である。彼らの語る夢は、現実的な夢に思えた。
だが、その頃から共産党内部では混乱が生じていた。
元々、日本共産党はソヴィエトの指導の下、マルクス主義に基づく共産革命を実現することを目的としている。そして当初の目的達成の手段は、武力革命であった。これを51年綱領といった形で明文化していた。
しかし、戦争への忌避感が強い日本の大衆に、武力革命を前面に出すことへの拒否感は強かった。だからこそ共産党内部で激烈な論争が繰り返されていた。多数決的な意味ならば、明らかに話し合い、すなわち選挙による政権奪取を目指す意見が強かった。
だが共産党を主導している宮本議長は、バリバリの武闘派である。当然に武力革命路線を捨てることは許さなかった。確認するが、共産党は党の指導に従うことを強制する独裁政党である。それゆえに多数派である平和革命路線の主張はなかなか通らなかった。
それでも数は力である。結局、51年綱領から党章草案といった形での路線変更が行われたが、問題はその中身である。一言で云えば、どっちつかずである。平和的な方向を大事にしたいが、いざという時に武力革命の手段は残しておく。
私の周囲の若者たちは、これを日和見だと批難していた。ただし彼らが少数派であることは、子供である私にも分かった。この武力革命支持の少数派は、やがて過激派と呼ばれるようになる。
一方、多数派を率いていたのは、不破書記長であった。このメタルフレームの眼鏡をかけたオジサンは、一見厳しそうなのだが、宮本議長の前で借りてきたネコ状態であった。
時代は変わる。大菩薩峠事件、浅間山荘事件、日本連合赤軍のリンチ事件と、共産党の武力革命の可能性は細るばかりであるが、共産党は決して武力革命路線の放棄をしなかった。
呆れたことに、武力革命どころか、革命という言葉自体を党の綱領から消すソフト路線を打ち出したのは、宮本議長の死後である。その頃から党の顔は、不破書記長から志位委員長へと移りつつあった。
私は志位氏のことは全く知らなかったが、彼が次代のリーダーであることはわかった。そして、彼がソフト路線の主導者であることも分かった。だから、今回の政府高官による、共産党への危険視発言に対して、彼が怒るのも分からんではない。
でも、だったら未だにどっちつかずの内容を含有した党章草案を否定しろよと言いたい。過去における日本共産党の迷走を直視し、それを総括して反省しない限り、共産党が平和志向の政党だとは認められない。
私が日本共産党へ票を投じたことがないのは、若い頃の失望が原因であった。あの中途半端さは、かつて戦って正義を確立しようと夢を語っていた若者たちへの裏切りに他ならなかったからだ。
そして、現在も票を投じる気にならないのは、過去の反省をしていないからだ。それどころか、武力革命を志向した過去そのものを、なかったことにしている卑劣さが許せない。
ついでだから書いておくと、既に日本政府は共産党を危険な組織だとは考えていないはずだ。危険な部分はとっくになくなっているこを知っている。にもかかわらず公安を中心として、共産党を危険視するのは、官庁の予算獲得のお題目として有効だからに他ならない。またボーナス査定の頃になると、元・過激派が公安に逮捕されるという茶番劇にも必要不可欠だからだと邪推している。
更に付け加えておく。確かに日本共産党には、もう日本を動かす力はない。ただ近年、気になるのは、シナやコリアに良い様に利用されているように思えてならないからだ。
そんな訳で、私はまだまだ共産党には注意を払う必要がると考えております。