無実の罪で裁かれたくはない。
だが冤罪と呼ばれる無実の罪を負わされた人は、古今東西絶えたことがない。人は万能にあらずして、必ず失敗をしでかす生き物である。
だから法制度を整えて司法組織により犯罪を裁くようになると、犯罪そのものを裁くよりも、組織の存続そのものが目的化してしまうことがある。
つまり犯罪の容疑者=真の犯人であるべきという公式が生まれてしまう。容疑者の無罪が判明することは、それまでの組織内の努力を無為にする行為だと捉えてしまう。
だからこそ、証拠不十分な事件の容疑者には自白を強要する。自白こそが最大の犯罪の証拠なのだから、自白さえ取れれば良い。こうなると、もう真の犯人探しは二の次と化す。
こうして容疑者として警察に囚われ、延々と勾留(代用監獄)を延長させられ、精神的に追い込まれてウソの自白をしてでも楽になりたいと苦しんだ冤罪の犠牲者は後を絶たない。
結果、組織は面子を守れて満足だが、冤罪の犠牲者を生み出したこと、そして真の犯人が自由にのさばっている歪んだ現実がある。
こうした現実に対応するため生まれたのが科学的な捜査である。物証を検証し、犯行現場を再現し、隠された証拠を見つけ出し、真の犯人を導き出す。
この科学的捜査が大きく進展したのは、20世紀に入ってからだ。特にカメラなどの映像証拠や、指紋、血痕、DNA判定などの新技術の導入により、犯行を否認する容疑者を追い詰めるのに役立っている。
この本で取り上げられていたが、積み重なった埃の上に残った足跡等を証拠として記録する装置は、なんと日本生まれ。副業(?)でTVの修理をやっていた警官が、TVの裏の静電気に引かれて埃がたまることから思いついた装置であるそうだ。
日本だって、捜査の過程での証拠の検証には、それなりに必死に取り組んでいる。しかし、日本はどうしても自白偏重主義である以上に、容疑者=犯罪者との思い込みが強い。
それも真面目に証拠のねつ造までして(大津事件など)、無理やり自白させて有罪に持ち込む悪癖は、今日に於いても絶えることがないようだ。取り調べの可視化が実現したのも、この自白偏重主義ゆえであろう。
自白させることは、罪を償うことにも通じるので、私も否定はしない。しかし少子化による人口減少と、外国人の増加は、この自白第一主義を危うくさせる。
日本人は世界的にみても警察を信頼しているが、これは例外に近く、私の知る範囲でも日本に滞在している外国人は、ほぼ例外なく警察をあまり信用しない。
賄賂が横行する国々が多いので無理ないと思うが、やはり言葉の問題というかコミュニケーションの齟齬の問題は大きい。日本の警察の伝統的な捜査手法である自白誘導は、外国人相手では相当に難しくなる。
そうなると、やはり役に立つのは証拠による犯罪捜査であろう。日本も科学的捜査では決して遅れるものではないが、地方都市などでは人員不足の現実もある。ただでさえ少子化による人手不足が心配される21世紀の日本である。
大学はそろそろ文系偏重を改め、理系の学部を増やすことをしていかないと、将来マズイことになると思いますね。