歴史を語る上で「IF」は禁物なのだが、それでもどうしても想像してしまう。
自粛期間中、あれこれと本を読んでいたのだが、図書館も本屋も休みなので、手許にある本の再読が多かった。そんななかで考えてしまったのが、もし織田信忠が生き残っていたらという想像であった。
もちろん戦国覇王・織田信長の長男であり、本能寺の変の際に自害して果てたあの信忠である。
信忠は既に家督を信長から譲られてはいたが、織田家の実質的な支配者は、もちろん信長である。その信長が真面目すぎるとぼやいたのが信忠であった。
実際、家来から本物のウツケと評された弟の信雄のような愚者でなく、また外見だけは信長そっくりと言われた信秀と異なり、武将として実績もある。ただ、面白みのあるエピソードなどがないため、凡庸と評されがちであった。
それでも決して真面目なだけの男ではない。いや、真面目すぎるかもしれない。かつて織田家と武田家が同盟関係にあった頃、信玄の7女である松姫と許嫁の関係であった。実際に対面したことはなかったが、双方ともかなりの筆まめで、頻繁に文通を交わしていた。
武田との同盟が敗れると自動的に婚約破棄となったのだが、信忠は諦めていなかった。長篠の戦で武田を破った織田軍であるが、体感した武田軍の強さ故に追撃は避けている。
武田方面の軍司令になった信忠に対し、信長は決して武田には手を出すなと厳命していた。しかし、信長はこの真面目一徹の息子の本心を見抜けなかった。いや、勘付いていたかもしれない。だからこそ歴戦の雄である滝川一益を補佐に付けていた。
でも松姫恋しの思いは深く、一益が止めるのも聞かずに信忠は、甲斐の地へ進軍し高遠城を落とし、武田勝頼を追い詰めて自害に追い込んでいる。ちなみに高遠城の城壁を、信忠自ら登って切り込む奮戦ぶりである。
若き日の信長もまた、先陣を切って戦う闘将であったから、やはり蛙の子は蛙なのだろう。まさかあの武田軍を破るとは思ってなかった信長は、大いに喜び、言い付けを破ったことを不問としている。
ちなみに二男の信雄は、やはり言い付けを破って伊賀に攻め込んでいるが、こちらは無残な敗戦であった。信長から勘当直前にまで叱られる体であった。
信長に褒められた信忠ではあるが、内心はかなり不満であったらしい。肝心の松姫を見つけられずにいたからだ。そのせいか、武田の残存勢力にはかなりキツく当たっている。その松姫は関東の八王子の寺で尼となっていた。
そのことが判明したのは、信長に従っての西国遠征の直前であった。多忙な最中にも部下を派遣して、松姫探索をやらせていた成果であった。もちろん松姫は、信忠が忘れずに待っていてくれたことに感激して、彼の元へ旅立ったのは言うまでもない。
だが運命の女神は二人に微笑むことをしなかった。信長が少数で本能寺にいることを知った明智光秀の謀反により、信長は死亡。信忠は助けに赴こうとし、逆に二条城で包囲されて自害に追い込まれた。
遂に生きている間は信忠と松姫は会うことは叶わず、悲嘆した松姫は生涯尼僧として独身で過ごしたと伝えられる。
余談だが、本能寺の変の時、京都見物に来ていた徳川家康は、信長の死を知ると、自らに害が及ぶのを恐れて伊賀の山越えで本国に逃げ帰っている。少数の部下(ただし、みな大物ばかり)しか居なかったので仕方ない判断である。
でも、少数の部下しか連れていなかったのは信忠も同じ。もし、織田家の存続を考えて信忠が逃げていたのならば、歴史は大きく変わっていただろう。だが真面目一徹な信忠に、父を捨てて逃げる選択は出来なかったと思われる。
歴史にIFは禁物だが、もし信忠が本能寺の変を生き延びていたのならば、清州会議は不要であった。如何に秀吉に野心があっても、他の家臣たちは一致して信忠に付くことは明白であったからだ。
そうなると、まったく別に歴史があったであろうことは想像に難くない。想像するのは自由だが、益亡きことなのでこの辺で辞めておきます。それにしても明智光秀、まったくとんでもない大事件を引き起こしてくれたものです。
私としては、織田政権の二代目としての信忠を見てみたかった気持ちはありますが、想像の翼をはためかす程度で辞めておきましょう。