ヌマンタの書斎

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豊臣家の人間模様 童門冬二 他

2020-06-11 12:05:00 | 

希代の人たらし、それが豊臣秀吉であった。

元々、貧しい農家の出であり、家名に格式はない。さりとて学識がある訳でもなく、武芸に秀でている訳でもない。しかし向上心はあった。いろいろな仕事に就いて経験だけは豊富であった。

だが、自分自身の至らなさをしっかりと自覚していた。普通ならば劣等心に押し潰されるところだが、秀吉は図太かった。自分にないものは、人に借りればよいと考え、有能な人材を集めて活用することで、自らの至らなさを補う以上の結果を出した。

温和でまとめ役に長じた弟の秀長、かつて世話になった野武士の棟梁である蜂須賀小六、信長から借り受けた知恵者の竹中半兵衛といった有能な家臣たちの助けもあって、信長の家臣のなかでも新参ながら明智光秀と並ぶ出世頭であった。

秀吉の強みは、有能な人材を活用して活かすことであったと思う。率直に言って秀吉以上の武将ならば、幾人もいたと思う。しかし、秀吉以上に人遣いが上手い政治家はそうそういなかった。

あまり指摘する人は少ないが、秀吉にとって憧れであり、恩人であり、目指すべき人であったのは信長個人であって、織田家ではなかった。秀吉が「明智には譲れない」と決断したのは、信長の想いを継ぐのは自分だとの強い自負があったからだ。

だからこそ信長の想いを継げない織田家の子供たちを素気無く切り捨てている。ある意味、強烈なリアリストであり、冷徹なリアリストでもある。

その秀吉唯一の失点は、後継者に恵まれなかったことだ。いや、親族から幾人も養子をもらい、後継者に据えようとしたが、どれも秀吉のお眼鏡に叶わなかった。だからこそ、淀君の産んだ秀頼に固執したのだろう。

だが老齢の秀吉は失念していた。家名に格式なく、学識もなく、武撃ウえ乏しい自分が何故故に天下人となれたのかを。

晩年の秀吉は、統一後の日本の統治のために、従来の戦場での有能な部下中心から、平時の統治が出来る官吏型の部下に権力を委ねつつあった。その代表が石田三成である。

この秀吉の判断は、リアリストらしい冷徹な考えである。もちろん、これまで戦場で命を懸けて尽くしてきた武断派の武将たちは不満を抱えた。しかし、秀吉は彼らを抑える自信があった。

ここに豊臣家没落の原因がある。

確かに秀吉は希代の人たらしである。その人心掌握の才幹は格別であった。でもそれは、穏やかな人格者の弟・秀長や、子飼いの武将たちの親役を担った北政所・寧々らの助けがあった。

しかし秀長は50代で病死し、寧々は秀頼の父を大野長治ではと疑い秀吉から離れつつあった。秀吉の威光を背に三成が増長したことに、かつての有能な部下たちの気持ちは離れだしたことに秀吉は気が付けなかった。

秀吉の死後、黒田官兵衛や藤堂高虎は家康側に回ったが、これは豊臣家への恩顧よりも、石田三成への敵対心のほうが強かったからだと思える。福島正則や加藤清正ら武闘派も同様である。呆れたことに、秀頼側にはそれを引き留めようとした形跡が見られない。

もし秀長が生きていたら。あるいは淀君に現実的な判断が出来ていたら、あるいは三成に柔軟な妥協が出来ていたのなら・・・

一代で日本統一を為し得た英雄である秀吉は、有能な部下の協力により夢を成し遂げたしかし、秀吉の死後、その有能な部下の離反により豊臣家が滅んだ。

表題の書は、秀吉の人間関係を中心にして、豊臣政権の栄枯盛衰を語ったものです。興味がありましたら、気軽に手に取って歴史に思いを寄せるのもまた楽しい時間だと思います。

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