幾つになっても、思い込みと誤解が解けるのはありがたい。
私は長年、太平洋戦争以前の日本の工業力の低さを蔑んできた。名機と持ち上げられぅゼロ戦は、単にエンジン出力が低いが故にアクロバット飛行で戦いを強いられた迷機に過ぎない。
戦艦大和は、時代遅れの鈍足のカメであり、1式戦車は砲台を据え付けたトラクターだと思っている。当然に日本兵なら誰もが装備していた38式歩兵銃なんて、弱い、脆い、遅いの三重苦の厄介ものだと思っていた。
ところが、21世紀の現代でも海外では、38式歩兵銃が趣味の狙撃銃としてマニアックな人気があると知り驚いた。
38式歩兵(サンハチシキホヘイジュウ)は、明治38年(1905年)に従来の30式歩兵銃を改良して作られた小銃である。40年以上に渡って作られ、太平洋戦争時にも、歩兵の主力装備である。
ボルト・アクション式の単発銃であり、日本人の体型に合わせて小型、軽量な銃として活躍したが、如何せんアメリカの半自動小銃である名機M1ガーランドに比べると時代遅れであり、攻撃力、射程距離が劣る。
これこそ、日本とアメリカの国力の差だと長年思っていた。
しかし、改めて調べてみると1940年代前半では、単発式ボルトアクション小銃が世界の主流であり、アメリカでさえスコフィールド小銃という単発ボルトアクションの小銃を使っていた。M1ガーランドが使用されるようになったのは、太平洋戦争後半の1942年以降であった。
だから必ずしも時代遅れではなかった。むしろ命中精度は高く、それゆえに現代でも一部のマニアを納得させている。ただ、当時の日本の工業力では部品の互換性が高くなく、職人たちの腕による差はあったようだ。
また小型軽量であるが故に、威力が弱かったため、火薬量を増やした新型小銃も作られたが、その信頼性は低く、現場の兵士は38式を好んだとされる。ここで日本の悪い癖が出た。
現場知らずの参謀本部では、38式に不足される破壊力を増やすための新たな銃を失敗作だと認めなかったが故に、38式には使えない弾薬が多く出回ってしまった。本土の工場で作られた弾薬の種類が複数あったことから現場では混乱が起きた。
兵站を軽視していた日本軍では、いざ補給品が届いても、それが38式歩兵銃には使えない新型弾薬であることも多く、その結果、銃剣を装備しての万歳突撃するしかなく、アメリカ軍の重機関銃の餌食となり戦場に唐黷ス日本兵は数知れず。
実は日本側でも重機関銃は用意していたが、銃弾を大量に消費するため、現場指揮官が嫌がって使わないことも多かった。また38式歩兵銃ほどの信頼性がなかったため、日本兵も使いたがらなかった。
つまるところ38式歩兵銃が悪かったのではなく、むしろ弾薬等の兵站の混乱が日本軍を劣勢に追い込んだのが実情であるようだ。また確かに38式歩兵銃は威力が弱かった。シナの日干し煉瓦の壁を崩せないくらいに破壊力に乏しかった。
だから私は38式はダメだと思い込んでいた。しかし、実際の戦場では銃の弱さは欠点とは云えなかった。弾丸も大きく火薬量も多い強力な銃は、ブロック塀を破壊し、一発の命中で敵兵の命を奪う。
しかし38式銃では威力の弱さゆえに、大怪我を負わすことは出来ても、一発で敵兵を殺すのは難しい。ところが実際の戦場では、死んだ味方兵と異なり、怪我をした味方の兵は可能な限り助けねばならず、救護と移動に手間を取られる。
破壊力の弱い38式歩兵銃は、シナ兵やアメリカ兵に負傷を追わせて、結果として救護運搬に人出を割かざる得ない状況を作り出す。一発で殺すよりも厄介な結果をもたらしていた。だから現場の指揮官は、破壊力の強い新銃よりも旧式の38式を好んでいた。戦場を知らぬ私の盲点でもあったわけだ。
敗戦後、多くの38式歩兵銃は廃棄されたが、東南アジアなどには数多く残っており、反政府ゲリラなどに軽量でタフな小銃として愛用されてきた。敵であったアメリカにおいてさえ、その使いやすさを好まれて、一部の熱心な愛用者を産んでいる。
頭の片隅に置いておいて欲しい。日本軍が負けたのは、アメリカの物量のせいではなく、日本の軍指導部の頭が悪かったからなのだと。お勉強エリートは成績が良くても、実際の戦いには強い訳ではない証拠です。
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