ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

司政官 眉村 卓

2009-04-22 12:30:00 | 
私は自分にリーダーシップが乏しいことを承知している。

自分の性格や気質などからすると、補佐役のほうが向いていると認識している。もっとも従順な補佐役ではなく、上司をチビチビとつっつきながらも的確に職務を果たす難儀な部下だとも分っている。

実際、サラリーマン時代も、今の事務所でも上司や先輩にたてつく常習犯だが、適当なところで手を引くので、致命的なことはやらかさない。上司からすると、少々扱いづらい部下なのだろうと思う。

もっとも立場を自由に選べることは少ないのが社会人の宿命だ。現状からすると、小さな事務所のなかで気心のしれたスタッフを駆使する立場でのボスなら、なんとか出来そうだ。これは近いうち実現すると思う。

では、大きな組織ではどうだろう。多分、よほど統制のとれた大会社や官庁ならば上の立場にたつことも可能だと思う。優秀なボスにはなれないと思うが、そこそこの仕事は出来ると思う。でも、おそらくは上司と部下との板ばさみに悩み、組織のなかで自由に動けないことに苦しむであろうことは、容易に予想がつく。

実は数年前、ある新興の上場企業の財務部長の座を提示されたことがある。これはある意向を持つお偉方の策だと分っていたし、自分には不向きと思い断った。

最初から受けるつもりはなかったし、むしろ如何に上手に断るかに思案したぐらいだが、その高額な給与と多くのスタッフを駆使する立場に魅力がないとは思わなかった。

仕事をする社会人の一人として、高い立場で大きな仕事をする醍醐味は間違いなくあると思う。多分、誰でもそんな夢を抱いたことはあるのではないか。

そう考えると、表題の作品に出てくる司政官という立場は理想的だと思う。宇宙に乗り出した人類が、新興の未開発惑星に送り込み、惑星の統治、開発に奮闘するのが司政官だ。

人類の政治機構上では、巨大な組織のなかの一地方行政官に過ぎないが、その惑星では唯一絶対の独裁者でもある。この本を読みながら、やりがいの有る仕事だろうなと夢想したものだ。

私は役人になろうと思ったことはないし、政治家を志したこともない。ないけれど、さりとて軽視しているわけでもない。社会全体に対する責を負う立場の仕事は、その責務の重大さに見合うだけの魅力はあるのだろうと今にして思う。

まっ、私では力量不足なのも確かなんだけどね。
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横浜事件再審理訴訟に思うこと

2009-04-21 12:13:00 | 社会・政治・一般
私が十代を過ごした街には、安いアパートが数多くあり、いわゆる学生運動家たちが住んでいた。

子供の頃から本の虫だった私は、教会のお姉さんたちに連れられて、近所の大学の文化祭で、その学生運動家たちと知り合った。

そこで学生たちが主催する読書会で、「毛語録」や「共産党宣言」「橋のない川」「キューポラのある町」など、いわゆる社会主義系の本を知り、不公平と不平等な社会に憤る若者たちの熱気に触れた。

小学生の頃は坊や扱いだったが、中学の頃から予備メンバー的な扱いに変り、私はいっぱしの学生運動家気分を味わっていた。はやく大人になって一人前になりたいと切望していた私には、大人への近道に思えたものだった。

ただ、幼少時に米軍基地のそばで暮らした経験のある私には、話し合い中心の政治活動には、いささか疑念があった。また当時流行っていたデモや集会では、いくらやっても夢は実現できないと感じていた。

それだけに、武力革命路線を主張する過激な青年たちの主張には強く惹きつけられた。ただ、如何せん、浅間山荘事件とその後の内ゲバ騒動のせいで、武力革命路線は敬遠されがちとなっていた。

なんどかの激しい論争の末、武力路線は否定され、穏やかな革命を目指す路線が中心に据えられた。当時教会の幹部たちから危険思想の持ち主と疑われだした私は、大いに失望して政治と宗教から遠ざかることを決めた。

あれから30年たち、いつのまにやら保守的な思想に惹かれ、反左翼的立場をとることの多くなった私だが、不思議で仕方がないのが、現在の左派の平和主義的主張だ。

私の記憶する限り、マルクス主義は武力革命肯定思想であったし、日本共産党だって武力革命を明確に否定したのは昭和の終わりの頃だったはずだ。少なくとも私が十代の頃までは、自衛隊への侵入と共産思想浸透作戦は党の路線の一つであったはずだ。私はそう聞いていたし、それを実践していた人も知っている。

事実、近くにあった防衛大学の病院には、グループのメンバーが数人働いていて、いろいろと情報を教えてくれた。内部浸透と教化活動は実際に行われていたのは間違いない。

自衛隊の武力をもってして、政府の奴らを倒すのだとの勇ましい宣言を聞かされ、頼もしく思っていたものだった。私にとってマルクス主義とは、政府打唐ニ政権奪取の思想そのものだった。だからこそ惹かれた。

ところが、現在ではそのことは抹殺されている。4月初めに戦時中の最大の言論弾圧とされた「横浜事件」の再審請求訴訟の判決が出た。原告の求めた無罪判決は得られず、ある意味予想通りの判決であった。

私の理解では、当時の日本共産党は政府打倒を目指していたし、それを政府が弾圧するのは当然のこと。しかも戦時下にあっての反政府活動に対して、残酷な拷問などは当然にあったと思う。戦時の常識を、平和な戦後の常識で裁くのは如何なものか。

敗戦により、治安維持法も廃止されたが、それなのに、今更無罪を求めるなんて妙に思わざるえない。戦時下にあって、日本政府の打唐fげた活動は無罪なわけがない。いちおう書いておくが、アメリカだってイギリスだって、マルクス主義を掲げる政党の活動は禁じていた。当たり前である。あれは共産主義革命を目指す、つまり既成の政府を打倒することを目指す政党なのだから。

現在の不況と、派遣切と失業の増大により、日本共産党や社民党が元気にみえる。彼らの主張に耳を傾ける人は確実に増えているのだろう。その一方で、彼らの過去が平和一色に染め直されていることが不快でならない。

日本政府に対する反政府活動はもちろん、北ベトナムへの支援やミャンマーの反政府軍事活動への支援はどこいった?日本連合赤軍を陰ながら支援していた事実はどうした?かつては南朝鮮の軍事政権を誹謗し、北の人民政府を支援していた過去はどこへ隠した。

自らの正義を信じてやまない輩は、過去の過ちは隠蔽したがる。それどころか、過去を美化することまで求めてやがる。まったくもって、胡散臭い連中だと思う。
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マイン ロバート・マキャモン

2009-04-20 13:03:00 | 
生きるため、生き延びるためなら主義信条なんて、いくらでも捨てられるはずだ。

昨日まで天皇万歳と叫びながら、敗戦して厚木にマッカーサーが降り立った途端に民主主義万歳を口にした恥知らずは数知れず。恥知らずではあっても、生き延びる術としては当然の選択。これが大人の判断ってものなのでしょう。

しかし、昨日まで信じていた価値観が崩れ去るのは辛い。信じていた度合いが深いほど、その挫折は深く根深い。あまりに辛いので、価値観の崩壊の原因を直視しようとせず、過去の栄光にすがりつく心情はわからないでもない。

なかでも本気で、人生の全てを賭けて信じていた価値観が崩壊すると、人は変らざるえない。多くの人は新しい状況に合わせて、恥も節操も投げ捨てて変貌する。

しかし、変えられない人もいる。たとえ現実が自分の信じた信念を否定しようと、あくまで自分の信念だけを信じてしがみ付く。現実が間違っていると断じて、あくまで信念に従い、現実を受け入れない。

現実が間違っているのだから、その現実を糾さんと実力行使に及ぶ。それは狂気の沙汰ではあるが、本人はあくまで真面目に生きているつもりだ。

日本の場合だと戦中の天皇崇拝者よりも、戦後の社会主義思想家に、この現実否定派が多い。アメリカの場合だと、いわゆるフラワームーブメントに代表されるヒッピーたちにその傾向が見られる。この反戦平和と環境問題を奉じる若者たちは、ほとんどが消え去ったが、あくまで自分の信じる信念に忠実であらんと固執した人たちは、少数ながら生き残っている。

しかし、現実は冷酷なくらいに彼らの信念を削り、捻じ曲げ、すりつぶす。強固な信念はそれでも揺るがないが、限界点に達した時、狂気の嵐が吹き荒れる。

ホラー脱却宣言をしたマキャモン最初の作品です。吸血鬼もゾンビも出てきませんが、狂気を宿した人間の恐ろしさが強烈。人は誰でも心の奥底に狂気の種を宿しているのでしょうが、その種が芽吹くことは滅多にない。だから、知らずに済む。

私は長い病気療養中に狂気の淵を彷徨った経験があるので、出来るなら読みたくない作品です。狂気に共感している自分に気付くのが辛い作品なんです、これは。

見方を変えれば、信じていたものに裏切られたことにより、生まれる狂気を知るには最適の一冊(上下2巻ですが)ですね。薦めはしませんが、興味がありましたらどうぞ。
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半落ち 横山秀夫

2009-04-17 12:27:00 | 
私が本を読む場所は、多くの場合通勤電車のなかとなる。

いつも悩むのが、話が終盤に差し鰍ゥり盛り上がってきた時だ。何故だか知らないが、降りる駅がせまってきて、中途半端な頁で、読書を中断せざるえないことが多い。。未練が残るが、頭を仕事モードに切り替えるためにも断固、読書は中断する。

さらに困るのが、帰路の電車の途中で読み終えることが予想できるときだ。残り30頁くらいなら、おそらく帰路の半ばで読み終えるはずだ。しかし、話が佳境に入ると、自然と読むスピードが上がる。

こうなると、帰路の電車のはじめで読み終えてしまうことは少なくない。これは困る。残りの時間がもったいないではないか。こんな時に限って、2冊目は持ってきてない。仕方ないので、もう一度読み返したりしているが、時間を無駄に遣った気がしてならない。

幸いにして、こんな気持ちにさせられる本はそう多くない。面白くって、夢中になってしまい、加速度的に読むスピードが上がる。そして一気に読み終えて、無駄な時間を残してしまう。

ゆっくりと、じっくり読めばいいのだが、面白くってそれが出来ない。魅入られたが如く、頁をめくる手の動きを止めることが出来ない。読み終えて、感動に浸る一方で、残りの時間を悔やんでいる。まったくもって困ったもんだ。

久々に、早く読みすぎて、中途半端な時間を悔やませてくれたのが表題の本だった。私は観てないが映画化されたらしく、その映画の評判は好ましいものではなかったと聞いていた。

こんな面白い話を、どう映画化したら駄目になるのか知らないが、原作を読まずに映画で失望したのなら、是非とも読んで欲しい作品です。

やっぱり中途半端はよくないな。半落ちでは納得できない。登場人物たちが皆、抱いた煩悶が共感できたことが印象的な良作でした。
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グローバルスタンダードの嘘 東谷 暁

2009-04-16 12:21:00 | 
隣の芝は綺麗に見えるそうだ。

わかっちゃいるけど、それでも羨ましく思った。

何がって、アメリカにおける公的資金を受けた金融機関が支払った、高額ボーナスに対する懲罰的課税だ。なんでもボーナスに対して90%の税額をかけるとか。大衆の憤りを受けての人気取り的政策ではあるが、それでもアメリカにおける倫理観のあり方からして、意味あることなのだろう。

で、十数年前の日本はどうだったか?

思い出すだけで腹がたつ。まず、住専の経営者どもだ。あれだけ貸付債権を焦げ付かせ、経営破たんに陥ったにもかかわらず、しっかり退職金をせしめて他の公益法人や財団によこすべり。まあ、元々退職金目当てのキャリア官僚OBだから、経営責任など脳裏をかすめもしなかったのだろう。

さらに腹立たしいのは、その住専の経営破たんを知りながら、かつての先輩たちに法的罰則が及ばぬ時効まで先延ばしにした上で、破綻処理を命じた旧・大蔵省のエリートと言う名のバカどもだ。

さらに住専に出資していた農協様を救済するため、公的資金を導入させた当時の政治家どもも同罪だ。もちろん、農水省も一役買っている。自らの利権と票田でもある農民票をまもるため奔走した自民党の政治家様もさることながら、役人の言いなりで、何をしでかしたのか、まるで理解していなかった社会党のお間抜け議員たちも腹立たしい。

そして銀行をはじめとした護送船団の面々だ。あれだけ不良債権を出し、貸し渋り、貸し剥がしを強行して不況を起しながら、しっかり高額な退職金をせしめて知らん振り。

とどめは記者クラブで安穏と自主規制の名の下に、不良債権報道を控えた日本のマスコミ様たちだ。知らなかったとは言わせない。当時ニューズウィークだけが、この自主規制に従わず、70兆という不良債権の数字を暴露してしまったが、同じ情報源を持つ日本のマスコミは知らん振り。

私が日本の不良債権問題の実相をはじめて知ったのが、表題の本を読んだ頃でした。当時は日経をはじめ大手メディア様は大蔵省の言いなり。それに異議をとなえた東谷氏は異端のジャーナリストとして排除される有様でした。

アメリカの場合、まだまだこれからが本番なので、結論を出すには早すぎるが、それでも日本よりもはるかにマシに思えて仕方ない。

権限を持ちながら何もせずに看過した大蔵省。経営破たんを知りながら、高額な退職金をせしめた金融機関の経営者たち。自ら甘い汁をすすりながら、その結果責任を国民に押し付けた政治業者ども。報ずるべきを報じず、厚かましくも「国民全体で負担すべき」などと主張したマスコミども。誰一人、罰せられず、の醜悪さが不快で仕方ない。

金融システムは現代経済の欠くべからざる大動脈であり、その救済に税金を投入する政策には同意できます。反面、その金融不安をもたらした当事者たちに対する処罰を欠いたことが、良かったことなのか私は大いに疑問です。

東谷氏はときおり妙な異論を唱えますが、それでも大手マスコミや御用学者様が報じない事実を知らせてくれるジャーナリストであり、貴重な存在だと私は考えています。
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