ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

マイケル・ジャクソンに思うこと

2009-12-09 06:03:00 | 社会・政治・一般
才能ある歌手であることは否定しない。

私とて学生時代にヒットした「スリラー」には熱中したし、あのゾンビのダンスには衝撃を受けた一人だ。艶のある歌声と、華麗なダンスは見るものを惹き付けて止まない。

ただ、どうしても納得できないのが、彼の整形手術だ。

私はマイケルがジャクソン・ファイブの頃から知っている。映画「ベン」のテーマ・ソングを熱唱していた頃の愛くるしい少年を今でも覚えている。

利発そうな黒人少年だった。マイケルがいつの頃から整形手術を始めたのかは知らないが、既にスリラーの頃には鼻の形が変わっていた。

外見が重視されるエンターテイメントの世界では、或る意味整形も必要な場合もあることぐらいは私でも分る。整形手術そのものは否定しない。問題はその志向性だ。

なぜに白人に似せて整形するのだ!

実地に経験したわけではないが、それでもアメリカが白人優位の社会であることは承知している。外部からはうかがい知れぬ差別と屈辱を味わってきたことぐらい想像できる。

だからこそ、彼には黒人らしくあって欲しかった。黒人でありながら、白人たちをも熱中させる優れたアーティストでいて欲しかった。

それなのに、マイケルは白人に憧れ、白人に似せて整形手術を繰り返した。白人におもねったと批難されても仕方ないと思う。事実、黒人たちの側からマイケル批判は少なからずあったと記憶している。

白人に似せて整形することで、白人と黒人との融和を目指したとかの奇論を聞いたこともあるが、私にはそう思えない。さすがにアメリカでも故人への批難は遠慮されているようだが、無視していて良い問題なのか疑問だ。

生前いろいろと奇行を繰り返し、整形という仮面の向こう側にあったはずのマイケルの真意は、ついに明かされぬまま亡くなってしまった。

素晴らしい歌手であったことは否定しないが、あまりに美化されすぎの最近の風潮に違和感を感じざるえません。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイレット博士 とりいかずよし

2009-12-08 08:06:00 | 
合言葉は、「またんき!」 (注:逆から読まないように)

まったくもってお下劣だ。世のお母さんたちがヒステリックに否定し、排除するよう騒いだのも分らないではない。下品な下ネタ満載の漫画であったのは間違いない。

流行したのは丁度私が小学校の高学年の頃であった。まだ性を意識することがなかった私でも、下半身丸出しで、下品なギャグを連発するこの漫画には興味津々であった。でも恥ずかしくて買えなかった漫画でもある。

週刊少年ジャンプは、ひと頃PTAをはじめとした良識ある大人たちの批難を浴びる漫画の殿堂だった。なかでも表題の作品は、子供たちの間で大流行してしまったため、悪書廃絶運動の筆頭に上がられる始末であった。

そう、子供たちはこんな下品な漫画が大好きだ。理屈じゃないんだよね、本能的に反応してしまう。最近ならば「クレヨンしんちゃん」だろう。私はこの夏人前で、お尻ペンペンをやっている男の子を数人みかけた。

もちろん、ママさんたちや学校の先生は眉をひそめていたが、心配する必要はないと思う。昔から子供って奴はそんなものだ。下品な漫画をみて育ったからといって、下品な大人に育つ訳ではない。

どんな人間にも、その心のうちには下品な部分、下劣な部分が押し隠されている。それが人間だと思う。これは無くすことは出来きない。いかに下劣な漫画やアニメを子供の目から隠しても、人間の下劣な心理は無くすことは出来ない。

これは無くすのではなく、抑えるものだ。本能に仕込まれた品性は、絶対に無くすことは出来ない。意志をもって押し隠すしかない。単純に否定してもなくならないものなのだ。これは教育というよりも躾の範疇に属すると思う。つまり家庭で身に付けるべきことだ。

母と妹たちだけの母子家族に育った私は、女性のヌードが載った雑誌よりも、「トイレット博士」が連載されているジャンプのほうが恥ずかしかった覚えがある。多分、スケベよりも下劣さのほうが嫌だったらしい。面白いのは後者なんだけどね。

余談だが後年、「NARUTO」でカカシ先生がナルトに7年殺しをかましている場面には驚いた。今もあるんだな、あの必殺技は。もう廃れていると思い込んでいたのだが、私の認識は甘かった。やっぱり子供はあの手の、お下品な振る舞いは好きなんだねぇ・・・
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋のない川 住井すゑ

2009-12-07 12:18:00 | 
はっきりと断言するが、憎い相手を力の限りぶん殴る快楽はたしかにある。喧嘩がさして強くない私でも、何度か経験している優越感と満足感。だがその気持ちよさも半日ともつことはない。

職員室に呼び出され、頭ごなしに叱られ怒鳴られ、よく分らんうちに頭を下げねばならぬ屈辱。先生の背中に隠れる相手の含み笑いにブチ切れて殴りかかるも、先生たちに押さえ込まれ、あげくに倉庫に閉じ込められた。喧嘩に勝ったはずなのに、味あわねばならぬ敗北感。こんな矛盾したことがあっていいのか?!

世の中、全然公平じゃないし、いかさまと誤魔化しが横行してばかり。相手のズルに怒って何が悪い。怒る方が当たり前であり、なぜに大人は分らない。卑怯に立ち回った奴らが得をして、堂々戦った自分だけが批難される。絶対おかしいよ!

誰も分ってくれない。気がついたら私はいつも一人だった。だから一人で好き勝手に、やりたいことをしたいだけやった。学校をサボることを覚え、気に食わない奴は放課後、帰宅の途中で襲い掛かって痛めつけた。相手がでかくたって、後ろから棒で殴りかかれば必ず勝てた。

先生は怖くなかった。ただうるさいだけだ。嫌なのは交番に連れ込まれ、親に連絡されることだった。母は働いていたので、おばあちゃんが迎えに来た。

おばあちゃんは私を叱ったりしなかった。ただ無言で私の手を引いて連れて帰ってくれた。私はこのおばあちゃんの無言だけが怖かった。だから家事の手伝いだけはやっていた。

家族に心配されるのは嫌だった。だから何も言わなかった。家では良い子でいたつもりだ。でも、それが虚勢であることは内心気がついていた。心は不安で一杯だった。

転機となったのは、親の転勤に伴う転校だった。新しい街、新しい学校で私は生まれ変わった。自分でもビックリするくらい良い子になれた。喧嘩もしない大人しい子供を演じられた。殴られる痛みよりも、孤独であることの痛みのほうが大きいことを知っていた。

弱いとバカにされたって、クラスの一員として受け入れられるほうがはるかに楽だった。負けるが勝ちって、こういう意味だったのだと初めて知った。

ただ、どこかで押さえつけていたものがあったのだと思う。燃え尽きたとみえた灰のなかで、火種が残っていたらしい。子ヒツジのように大人しくなっていた私に、再び火を付けたのが表題の本だった。

転校した後に、母に紹介されて参加するようになったキリスト教の集まりで奨められた本だった。

自分のためではない怒り。差別と不公平への怒り。虐げられるものへの哀しみと同情、そして彼らを虐げるものたちへの怒り。怒りは悪事を糾す動機にもなるものだと知った。

キリスト教は神に許されるありがたみを教えてくれた。そして社会主義は虐げるものへの怒りが正当なものであることを教えてくれた。私は急速に社会主義へと傾倒していった。もっとも高校を卒業する前に挫折と失望を味わい、以降は政治と宗教から離れることになる。

現在でこそ市場経済肯定派であり、右よりの保守の立場になっているが、私の政治への関心の第一歩は、間違いなく左派から始まった。その契機となったのが、この本であった。

社会主義や平等思想は、つまるところ煩悩深き人間どもには届かぬ境地なのかもしれないが、それでも世に数多あふれる不正を糾す土台たりうるものだと思う。

ベルリンの壁が壊され、社会主義が廃れた今だからこそ、改めてその価値を考えてみたいものです。少なくとも表題の本は、忘れ去られることなく読み継がれて欲しいと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藪山にて俳句を詠む

2009-12-04 12:48:00 | 旅行
私の大学4年間は、その大半がクラブ活動(ワンダーフォーゲル部)に費やされた。

私の他6人の同期がいるが、何故だか知らぬが揃いも揃って脳みそ筋肉の体育会系のバカが揃った。私だけはちょっと違うと思うが、周囲はそう思っていなかったようだ。

私は嫌いだが、根性とか気合とかは確かに必要だし、大事なことでもある。いくら精神を鍛えても、体力がついていかなければ役に立たないのも厳然たる事実だ。必然的に体力、根性路線まっしぐらとなる。

ちなみに私たちの一学年上の代と、一学年下の代はなぜか知的レベルが高く(例外もいたが)、根性体力路線は大嫌いであった。そのあたりの事情が、あの妙な合宿をやる羽目になった裏事情でもあった。

我が部では、毎年晩秋の時期に「リーダー養成合宿」をやっていた。過去2度の遭難死亡事故を経験しているがゆえに、リーダー層のレベル強化は、クラブの大方針であり、避けられぬ関門でもあった。

来年のリーダーである2年生にとり、この時期は来年度の運営方針を決める時であり、その意気込みを「リーダー養成合宿」で示さねばならない。

連日連夜、学生会館の一室ににて論議を重ねるうちに、話が妙な方向にぶれだした。私たちの個性を出さねばならぬと上級生から指示されたことが、事の発端であった。

元々上級生からも下級生からも体力・根性路線だと見られていたことに反発した我々は、このあたりで知的な面をみせてやろうと妙に意気込んだ。

その結果、山のなかで俳句を詠み、それを発表し合うという抱腹絶倒な企画が出てしまった。多分、連日連夜の議論で脳みそが疲弊して、溶けていたに違いない。

なにせ、これまで山の中で発する言葉といえば「気合入れろ!」「根性出せ!」「返事が小せい!!」と怒鳴ることしか能がない我々である。正直、企画を出した際は上級生から却下されるに違いないと思っていた節がある。

ところがだ、このへんてこりんな企画は通ってしまったのだ。困ったゾ。下級生からは抗議の声が上がったが、一番止めたいと思っていたのは、当の我々だった。

ちなみにリーダー養成合宿は半端な登山ではない。肉体的にも精神的にも極めて過酷な合宿なのだ。水場がほとんどない藪山に行くことが半ば義務付けられているため、2年の我々が背負うザックは45キロを超えた。しかも連夜の反省会のせいで、睡眠時間は一日3時間に満たない。

そんな状態で、しかも3年、4年のいじわるな看視つきでリーダーを務めねばならない。肉体的にも精神的にもボロボロの合宿なのだ。そんな最中に俳句を詠めと言われても、出来るかいな!

実際、合宿は始まってしまい、我々のパーティは静岡深南部の藪山で立ち往生していた。あまりに藪が濃く深すぎて、最終的には惨めに敗退を余儀なくされた。

ええ、やりましたよ、俳句作りを。見るのも嫌だった藪のなかで、頭を抱えつつね。おかしかったのは、散々嫌がっていた下級生や上級生までもが、けっこう真剣に俳句作りに没頭していたことだった。

後で発表された俳句を詠むと、けっこう力作が多く皆意外と楽しんでいたことが分った。ちなみに当の企画者である我々二年生の俳句が一番駄作が多かった。結果的に体力のみの学年であることを立証する羽目に陥った。

余談だが、どうしても俳句が作れないと執拗に抵抗していたのは、我が同期のMである。さすが脳みそ筋肉No1だが、わがままは許せず、仕方なく窮余の策で詩を書かせることにした。結果、凄くくさい詩を作っていたことが判明して爆笑。あんなロマンチックな詩を書く奴だとは思わなかった。

卒業後、Mの結婚式でその詩を読み上げてやろうかと持ちかけたら断固拒否された。むぅ、残念である。え?私の俳句はどうしたかって。忘れましたよ、あんな過去は。思い出したくもないですね。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球温暖化論のウソとワナ 伊藤公紀/渡辺正

2009-12-03 12:18:00 | 
完全な嘘でないからこそ厭らしい。

1 地球の平均気温は上昇している。

2 地球の二酸化炭素濃度は上昇している。

この二つは事実である。事実ではあるが、だからといって人類の産業活動により生じた二酸化炭素濃度の上昇が、地球の温暖化の原因であることが真実とは立証されていない。

この温暖化議論は、国連の記者会見の場で発表されたことから始まっている。学術論文でもなければ、学会の論議から生まれたものでもない。国連という極めて政治的な思惑が乱れ飛ぶ場で、科学的検証も十分になされぬままに発表された。

結果として、多額の金が世界中を駆け巡る羽目に陥った。金だけではない。石油という化石燃料を燃やしてCO2の発生を減らすと称してバイオ燃料の開発に多額の金が投資された。

そのために、ブラジルやインドネシアで貴重な熱帯雨林が伐採されてトウモロコシの栽培されて、バイオ燃料が精製されたが、本来の目的(CO2の削減)とは程遠いのは間違いない。

環境対策を名目に様々な研究所、企業、大学に予算がばら撒かれ、温暖化対策を謳ったエコ商品が消費を促す。あげくに排出量取引という名のペテンまでもが横行する。

地球温暖化防止という十字軍的聖典に陶酔している人たちには、とんでもない暴言だと思えるだろう。しかし、科学的根拠が希薄で、意図的な誇張と反証の無視による虚構の理論を信じ込む愚かさこそ問題だと思う。

人は善意に酔いしれた時にこそ暴走するものだ。だからこそ冷静な議論が必要になる。そのためには第三者からも検証可能な科学的データーをベースに論証を重ねる必要がある。

表題の本は現役の気象科学者らが危機感に懸かられて書いた地球温暖化論議の検証本です。事の発端となったIPCCにも参加している学者だけに、その指摘は鋭く重い。

氷が消えた北極で飢える白熊の映像に心動かされ、私も地球温暖化防止に一役買わねばとエコに走った人には、頭から冷水をかけられるが如く厳しい現実。この厳然たる科学的データーを素直に受け止めることが出来るだろうか。

私見だが、この地球温暖化騒動は、20世紀のオイル・ショックの引き金となったローマ・クラブのレポートに匹敵する一大ペテンだと思う。

おそらくは、その背後にあるのは枯渇する石油だと私は思う。そして、地球温暖化防止騒動は産業界、学会、政府系機関に多額の金を流し込むことも無縁ではないと思うね。

私は限り或る資源である石油を技術的に節約する努力は必要だと思う。でも、科学的に実証されていない地球温暖化とCO2増加をリンクさせて、ヒステリックに騒ぎ立てることには好感を持ちえません。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする