ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

イスタンブールの群狼 ジェイソン・グッドウィン

2009-12-16 07:18:00 | 
現代の文明が欧米主体であるのは事実であるので、歴史を学ぼうとすると、どうしても欧米を視座の中心においたものにならざる得ない。

これは方向性として間違いではない。だから否定する気はないが、一方的な見方であるのも事実なので、この方法では歴史の実態を見誤る可能性が高い。

人類の歴史の大半において、欧米は中心的存在ではなかった。むしろ辺境の蛮族であり、インドの諸王朝及びシナの中華帝国を別にすれば、地中海からオリエントこそが人類の中心的地域であった。

なかでもトルコ系民族が其のなかで果たした役割が大きいと私は考えている。トルコ系民族と表記したが、あまり正確な用語ではない。Turkと書きたいが、これだと馴染みがないと思うので、便宜上トルコ系民族と書く。

この民族集団が、小アジアのアナトリアを出自とすることはほぼ分っている。その後世界各地に広がり、その影響力の大きさは計り知れない。

鉄器を最初に活用したと伝えられる古代ヒッタイトは、トルコ系ではないかと私は思っている。また遠くユーラシア東部辺境においてシナの帝國を粉砕し、その配下においた匈奴と呼ばれた民族も、私はトルコ系ではないかと疑っている。

具体的な証拠があるわけではなく、鉄製武器の活用と、騎馬の活用、武帝によるシナの逆襲後の西への転進などの行動パターンからの憶測に過ぎないが、きわめてスケールの大きな民族であったことは間違いないと思う。

匈奴の西進はゲルマン民族の大移動を引き起こし、結果西ローマ帝国を滅ぼしたのだから、その影響力は極めて大きい。余談だが、日本語は言語学上トルコ=アルタイ語族とされる。小アジアから出発した民族が、遠くユーラシア大陸の東部の果てにまで影響を与えたのだから、やはり相当な存在感を持つことは確かだ。

しかし、産業革命に端を発する欧米文明の飛躍的侵略の煽りを最も受けたのもトルコ民族であった。イスラム革命の継承者であり、中世から近代に至るまで先進国であり続けたトルコ帝国も、最先端の武器と大量生産の技術をもつ西欧の草刈場に過ぎなかった。

そのため、今日我々が学生の時に学ぶ歴史教科書では不当に低く貶められている悲劇の民族でもある。ほんの200年前までは、ヨーロッパの王侯貴族は、オスマン帝国のスルタンの顔色伺いに汲々としていたのだ。先進国とはイスラムの国家であり、光(文明)は東方から来るものであることが常識であったのだ。

表題の作品は、繁栄の晩年期を迎えたオスマン帝国において発生した謎の連続殺人を題材にした歴史ミステリーです。宦官を主人公にもってきている為、男子禁制のハーレムから下町のドヤ街まで、世界最高の歴史と繁栄を誇ったイスタンブールの街を見事に描き出しています。

産業革命により進んだ技術をもって迫ってくる欧米に対抗するため、新たな社会体制を目指すスルタンと、それに抵抗するイェニチェリらの守旧勢力との間で奮闘する切れ者の宦官。なかなかに面白い舞台設定だと思うので、機会がありましたらご一読ください。
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サンフレッチェ広島のサッカー

2009-12-15 06:52:00 | スポーツ
今年のJリーグを振り返ってみたとき、一番印象的だったのがJ2から昇格したサンフレッチェ広島だった。

元々実力或るチームであり、J2落ちは不運なものでもあった。だが、見事に首位でJ2を駆け抜け一年でJ1に戻ってきた。開幕当初は同じくJ2昇格組の山形の勢いが目立っていたが、広島のサッカーも快調に勝利を重ねた。

そのサッカーはペトロビッチ監督のもと、徹底したパス・サッカーであり、戦術的にはポジション重視のサッカーでもあった。理想はリーガ・エスパニョーラのサッカーだと公言し、醜く勝つよりも、美しく戦うサッカーを目指すとの言に嘘はない。そのことを思い知らされたのが、第30節での対フロンターレ川崎戦だった。

私自身は当初、フロンターレに注目していた。その前の試合でエースFWのジュニーニョと主力FWのチョン・テセの二人が揉めていたと聞いていたからだ。優勝を何度も逃したフロンターレには、今期こそ優勝の思いが強い。だからこそ、この試合は見逃せないと思っていた。果たして内紛で潰れるのか?興味津々だった。

ところが試合は7―Oでフロンターレの圧勝。心配された内紛の影響はなく、自慢の3トップ大爆発の試合だった。

結果だけみれば、大味な試合に思える。しかし、実際の試合は違った。とりわけ前半の緊張感は半端ではなかった。Jリーグ随一の攻撃力を誇るフロンターレは、サンフレッチェの果敢な攻撃の前に色を無くした。前半はかろうじて一点を先制したが、いつサンフレッチェが得点してもおかしくない試合展開であった。

しかし、前半で広島が一人退場者を出したことの影響が後半に一気に出てしまった。フロンターレはトップ下のチームの司令塔である中村憲剛をボランチに下げ、守備を固めると同時に長距離パスを主体としたカウンター攻撃にシフトした。憲剛はJリーグでも屈指のパッサーであり、鹿島の小笠原と並んで長距離パスをも得意としている。これが見事にはまった。

憲剛のロングパスはジュニーニョ、チョン・テセ、レナチーニョの3トップを縦横無尽に走らせて、矢継ぎ早に得点を重ねた。さすがとしか言い様がない。これなら優勝を十分狙えたと思った。

だが、私の目を惹いたのはサンフレッチェの攻撃姿勢だった。最後の最後まで自分たちの攻撃スタイルを変えずに責め続ける姿勢は真摯なもので、試合の緊張感は点差とは裏腹にいや増すばかりだった。

普通、このような大敗を喫したチームは、試合後サポーターから罵声を浴びせられる。しかし、この試合の直後、サンフレッチェのサポーターたちは選手たちを罵りはしなかった。むしろ暖かく拍手して迎えた。あの一人少ない10人で全力でピッチを駆け回り、最後まで諦めなかった戦いぶりを賞賛したのは無理のないところだ。

実際、対戦相手のフロンターレは広島の攻撃を跳ね返すのに必死だった。ゴール前に選手を集めて、ゴールに鍵をかける試合ぶりだった。だからこそロングパスによるカウンター攻撃が効果的だったのだが、守備の選手たちは大変だったと思う。それだけサンフレッチェの攻撃は凄まじかった。

試合後、サンフレッチェのペトロビッチ監督は疲労困憊した選手たちを褒めたという。最後まで試合を投げずに、攻めの姿勢を貫く様は、十分賞賛に値するというところだろう。

弱いチームは守備から強化する。無様な戦い方でも、それが基本だと思う。でも、サンフレッチェはあくまで攻撃にこだわる。選手全員が一致して攻撃サッカーの更なる向上を目指している。攻めて勝つ美しいサッカーを、本気で目指すチームがあってもいいなと思った今期のJリーグでした。
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妖星伝 半村良

2009-12-14 06:49:00 | 
自分の人生が価値なきものであることには耐えられない。

人生って奴は、気まぐれで無情なものだ。こんなに努力したのに報われてないと感じることは少なくない。降りかかる困難の雨にずぶ濡れとなり、苦悩が背骨のなかに浸み込んで拭えない。

もがいて、あがいて、倒れ伏して、遂には動けなくなる。もうじき尽きるであろう自らの命の灯火を感じながら、星空を見つめて思うのは、自分の人生の意義だ。

自分は何のために産まれ、何のために生きて、そして死んでいくのだろう?

作家・半村良はとんでもない答を導き出した。それが表題の作品だ。

それは壮大な実験であり、悲壮な覚悟の下になされた残酷な結論でもある。だが、どうしても伝えねばならぬ使命がある以上、断固たる決意をもってなされた妖しき手段であった。

或る意味、衝撃的な結論だった。私はこれほどまでに絶望的な答を他に知らない。光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」以上の衝撃だった。

地球に生きる全ての生き物は、その目的を果たすための手段であり、土壌であり、餌でもあった。それだけの存在なのか。絶望的な答であることは間違いない。

だが、餌であり、肥料であり、踏み台に過ぎぬことを知っても、人は生き続ける。定められた道ではあっても、自らの意志で力強く歩むことを止めない。

沢山の登場人物が登場するが、私が一番好きだったのが一揆侍である栗山だ。圧制に苦しむ農民たちのために、一揆のノウハウを指南して助ける浪人でもある。どんなに努力しても、この世の中が変わらないことを知りつつも、己の良心に従い貧しきものを助けることに身命を捧げることを止めない。

報われぬ絶望的な使命と知りつつ、一揆侍として奔走する。そして裏社会を生きるものとして、この惑星に生きるものの隠された理を知ってもなお、力強く生きることが出来る心の強さを持つ。

栗山もまた餌であり、肥料であり、踏み台に過ぎない。だが、栗山は決して挫けない。最後には穏やかな笑顔を浮かべて「この星が好きだ」と呟いて人生を終える。

たとえこの星が妖星だとしても、この星に生まれた一人として、この星を愛して人生を全うしたいものだ。私は直木賞作家でもある半村良の代表作は、これだと信じています。長編ではありますが、未読でしたら是非ともトライしていただきたいと思います。
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一枚の名刺

2009-12-11 08:22:00 | 日記
俺にはヤクザの友達がいるんだぜ。

そんなことを誇らしげに語る人は少なくない。ハッキリ言って馬鹿だと思う。

もちろんヤクザにだって友達はいる。私のみたところ、二種類の友達がいるようだ。ひとつは心のつながりを持つ友達だ。ヤクザ自身が大切に思う相手であり、数はあまり多くはない。

一方沢山いるのが将来のネタとしての「おトモダチ」だ。冒頭の科白を平気で口にするような奴が典型例だ。仕事をもってきてくれる相手であり、仕事自体になるかもしれない相手でもある。

この後者の「おトモダチ」の多さがヤクザの生活を(つまり稼ぎを)保証する担保となる。要するに飯の種だ。優しい笑顔で近づいて、後でいつでも咬み砕く。

だから、ヤクザとの距離感は難しい。私は育ちが悪いので、ヤクザを身近で見て育った。多分、普通の人よりは敏感だと思う。クラスメイトにも幾人かいる。行方不明の奴もいれば、出世して豪邸を構えるやつもいる。どうも死んでしまった奴もいるらしい。

ヤクザは派手だ。いい女を連れて歩き、札束で財布を膨らませ、品はないが高価な服装で肩で風きって街を闊歩する。

バブル崩壊以降、いくら勉強していい会社に入っても将来は安定しない。いくら頑張って働いても雀の涙の給料では、日々の暮らしを賄うのがやっとだ。夢も希望も抱けない社会ならば、一層のこと裏社会にデビューするほうがいいかもしれないなどと考える若者が増えるのも無理はない。

別にヤクザに限らないが、裏社会は激烈な競争社会だ。実力のない奴は、情け無用で切り捨てられ、踏みつけられる。成功者には莫大な見返りがあるが、それは安定とは無縁のあだ花に過ぎない。それでも若いうちはなんとかなる。

だが、老年を迎えたハグレ者の末路は厳しい。

私が長期の入院生活を送った二十代の頃に知り合ったQさんが、そんな一人だった。その素行の悪さから、幾つもの病院を渡り歩き、ついにこの病院に棲みついてしまった。実際トラブルを頻繁に起こし、渡り歩くというよりも追い出されて流れ着いた感が強い。

ひと目で堅気の人間ではないことが分った。あまりお近づきになりたくないタイプである。当時私は寝たきりの生活から開放され、一日中点滴に繋がれてはいたものの、その点滴をぶら下げる移動式の台にすがりながら歩行練習をしていた。

疲れて談話室で休んでいるうちに、そこでタバコを吸っていたQさんと話すようになった。当時病棟で若い男性患者は私一人だった上、彼のようなヤクザ者と普通に会話が出来る人も少なかったので、いつのまにやら懐かれるようになった。

会話といっても、ほとんどは彼の自慢話を聞かされるだけだ。私は子供の頃から銭湯などで、この手のヤクザ者と接することに慣れていたので、それほど苦ではなかった。

ただし、どれほど仲良くなっても、決して私から頼みごとはしなかった。あくまで彼の話を聞くだけにとどめた付き合いだった。ヤクザ者に借りを作ってはいけない。私はこの鉄則を頑なに守った。おかげで、一年近い入院生活の間彼との間でトラブルは、まったく生じなかった。

彼は時折、私に対して弱音を吐くことがあった。私は既に気がついていた。彼が組織の正式な構成員ではなく、よく言って下請け。つまるところ、使い捨ての便利屋扱いであったことに。

おそらくは若い頃は羽振りが良かったのは確からしいが、難病で衰弱したQさんの末路は悲惨だった。彼を世話してくれるのは90過ぎの母親だけだ。その母親が近くの病院に入院した時、Qさんの動揺と悲嘆は哀れとしか言いようがなかった。

事情を知っていたと思われる総婦長さんに頼まれて、いくつか雑用をこなしたことがある。あの病院で彼とまともに話を出来るのは、主治医のW助教授と総婦長と数人の看護婦を除けば私だけだったからだ。

知らず知らずのうちに、私は事情を知ってしまった。深入りするのが嫌だったので、或る程度距離を置いていたのだが、知れば知るほど悲惨だった。仕事も年金もない彼が、いつも財布に万札を入れていた理由も、それとはなしに分った。

おそらくは彼がトラブルを起したとされる他の病院での医療過誤がらみだと私は睨んでいる。でも、彼が表に出れない理由があることも、なんとなく分った。想像だけど、彼はあの病院に匿われていた気がする。

私の手元には、Qさんからもらった彼の名刺がある。上質な紙を使い、金色の紋章が入った立派な名刺だ。すごく偉そうな肩書きが書かれている。

その名刺に記載された住所に足を運んだことがある。路地の奥まったどん詰まりの地番だった。よくぞ潰れずに建っていると感心するほどのオンボロ家屋だった。人が住んでいる形跡はなく、何枚もの紙が張られていた。雨に濡れてその文面は読めなかったが、ろくでもない科白であるのは間違いないようだ。

はぐれ者の末路に相応しいボロ家屋であったが、Qさんがそこへ戻ることはなかった。私が二度目の入院をした時は、まだ意識があったのだが、三度目の時はもう意識はなかった。母親は既に亡くなっていたらしく、民生委員の方だけが世話をしていたらしい。

裏社会で生きていくことは、決して容易なことではなく、羽振りがいい時だけを見て判断できるものではない。そのことを忘れないために、あの名刺はしっかりと保管してある。私一人ぐらい、彼を覚えている人間がいてもいいとも思うよ。あれじゃあ寂しすぎるからね。
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プロレスってさ タンク・アボット

2009-12-10 06:35:00 | スポーツ
歩く肉樽としか言い様がない。

厳密には、この人はプロレスラーではない。格闘家といえば聞こえは良いが、実際は喧嘩屋に過ぎない。しかも、恐ろしく強い喧嘩屋だった。

十数年前のことだが、格闘技の世界に突如ブラジルから異端の武道が名を挙げた。明治時代の不世出の柔道家、前田光世が世界放浪の末たどり着いたブラジルで柔術を広め、その流れを汲むグレイシー一族が突如として登場した。

ブラジルで行われていた「ヴァリー・トード」という試合形式において無敵を誇ったグレイシー柔術。この試合は、なんでもありとされ、打撃も寝技も関節技も認められる。もっとも噛み付きと目潰しは禁止されているが、それでも従来の格闘技に比べて、格段に自由度が高い。

この形式だと、寝技に弱いプロボクサーやキックボクサー、空手家はボロ負けだった。グレイシーのやり口は単純だ。タックルで相手を倒して、馬乗りになってタコ殴り。これだけ、本当にこれだけだった。正確には、締め技や関節技もあるが、馬乗りタコ殴りが一番印象的だった。

これは説得力があった。たしかに子供同士の喧嘩でも、相手を唐オて馬乗りの状態になれば、事実上勝利は確定したものだ。この馬乗りの体勢を「マウント・ポジション」と呼ぶ。いかに素早く、このマウント・ポジションを取るかが、グレイシー柔術の特徴だった。

このきわめて実戦的な戦い方ゆえに、グレイシー柔術とヴァリー・トードは世界に広まった。ただ、ショー・ビジネスとしては、いささか問題が多かった。素手での殴りあいは、殴られた側にダメージが大きく、タコ殴りの結果顔面が変形するほどのダメージを受けた選手が続出した。

あまりの陰惨さに、ヴァリー・トードの形式を禁じた国、州(主にアメリカ)が続出した。また、やられる一方だった打撃系の選手たちも、マウント・ポジションへの対抗策を編み出すようになった。このあたりから、総合格闘技という概念に進歩することになる。

総合格闘技の試合はショー・ビジネスとして集客力は確実にあった。たしかに戦い方はリアルなものであり、迫真性は増したが反面残酷でもあった。それでも、そのリアルさを楽しむ観衆は確実に存在した。そんな最中に登場したのが、アメリカのタンク・アボットだった。

巨漢でデブなアボットだったが、ただのデブではなかった。骨格に筋肉を分厚くまとわせ、その上に脂肪の鎧を覆ったような異様な体格だった。歩くドラム缶に思えたものだ。身長は180だが、体重が130キロを超えている。それでいて動きは俊敏であり、なにより短足だった。これが強みだった。

白人としては、いささか足が短かったが、その分重心が低く、相手のタックルを容易に受け止めてしまい、簡単には倒れない。それゆえ、マウント・ポジションを取られにくい。逆に相手のタックルを潰して、アボットが馬乗りになり相手をタコ殴り。それで勝利を重ねた。

問題はアボットが格闘家ではなく、喧嘩屋だったことだ。ボクシングやアマレスの経験はあるようだったが、その技量はそれほどたいしたものではない。むしろ本業は酒場の用心棒であり、その強面の容貌に相応しい残酷な打撃が印象的だった。

その圧倒的な強さゆえに人気も出たが、問題が多かった。いや、多すぎた。ファンや観客への暴行は日常茶飯事であり、私生活でもそれは変わらなかった。アボット・ガールズと呼ばれた女性ファンを引き連れてのご乱交も、人々の顰蹙を買ったが本人はどこ吹く風だった。

今だから分るが、この人は裏社会の人間であった。明るい日のあたる社会で、節度を持って生きていける人ではなかったと思う。試合とはいえ、この人は暴力を楽しんでいた。相手を傷つけることを当然に思い、手加減するよりも、ぶちのめすことを優先した。

それゆえ、ショービジネスの世界には馴染めなかった。いや、許される存在ではなかった。一時期プロレス入りもしたが、そこでも相手を徹底的にぶちのめす悪習は抜けず、結局追放された。

普通の感性では残酷すぎて、見るに耐えうるものではない。しかし、そのような残虐さを楽しむ人は必ず存在する。そのことを思い出させてくれたのがアボットだった。
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