ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

レバ刺し規制に思うこと

2012-06-08 11:34:00 | 社会・政治・一般
お節介もいい加減にして欲しい。

飲食店にとって、一番恐ろしいのは店内で出した食事が原因での食中毒だ。よほど店名に信頼があるか、大手資本の支援がない限り、食中毒をだした飲食店の将来は確実に暗い。かなりのブランド店でも、大幅な売り上げダウンは避けられない。

だからこそ、どの飲食店も食中毒が出るような事態を恐れる。基本である手洗いはもちろん、外部の業者を使っての消毒作業も欠かせない。お金はかかるが、どうしても欠かせない出費であった。そのはずだった。

しかし、この十年近いデフレ経済が、飲食店の経営を厳しくしている。夜の飲食店なら、一人あたりの単価は3500円から4000円前後を予定していることが多い。ところが、最近は財布の紐が固く、単価は3000円を大きく割り込んでいるのが実情だ。これでは経営が厳しいのも当然だ。

だからこそ飲食店は必然的にコストを下げることに熱中した。野菜の切り方を工夫して、量を増やさず盛りが大きく見えるように配置する。くず野菜を可能な限り出さずに、野菜の芯まで調理する。

値下げを断行したうえで、なおかつ利益を今まで以上に確保するためなら、ありとあらゆる工夫をこらして原価を下げる。そうでなければ、このデフレ不況を乗り切れない。そこに無理が生じた。

レバ刺しやユッケに代表されるような生肉料理は、鮮度と衛生管理がきわめて大切になる。生肉にはどうしても菌がつきやすい。だからこそ、肉の塊の周囲を切り込み、中心部分だけの安全な部分を客に出す。

切り取った部分は、他の料理に使いまわす。それが伝統的な手法であった。これにより食中毒を防ぎ、長年客に提供してきた。ユッケの本場コリアでも、生肉の扱いには慎重であり、食中毒なんてまず起きない。

日本の食肉文化は、率直に言って歴史が浅い。本格的に肉を食べるようになったのは明治以降であり、プルコギのような焼き肉料理自体は、日本に来た朝鮮人たちにより持ち込まれたものだ。

今でこそ松阪牛に代表される和牛のように、世界屈指の肉を提供できるようになったが、プルコギやステーキ、内臓料理などは、まだまだ本場には敵わないものがある。だが勉強熱心な日本人だけに、基本を押さえたうえで、さらに改良して美味しい肉料理をだすことに余念がない。

ところが、この研究熱心さが悪い方に出ることがある。コストを削減しようとの努力の結果、安全面をおろそかにして安くレバ刺を提供しようとした結果が、幾人もの死傷者を出した食中毒事件につながった。

痛ましい事件だと思うが、だからといって政府がレバ刺しやユッケを規制するのは筋違いだと思う。あまりに過保護というか、規制さえすれば食中毒はなくなるとの思い込みに、役人的事なかれ主義を感じざるえない。

実を言えば、私は生肉料理自体はそれほど好きではない。あれは珍味に属するもので、たまに食べればいい程度の認識でさえある。しかし、政府が禁止するようなものではないと考えている。

珍味ではあっても、立派な料理の一つであり、安全面を強化するように指導する一方、食中毒を起こした店に対する情報公開と規制を迅速にするだけで十分だと思う。生肉を食べることは、危険性を伴うものであるとの認識を広める努力も、今まで以上にやればいい。

元来、日本は毒だらけのフグでさえ、一定の規制の下で認めるほどの食いしん坊大国でもある。美味しいと認めれば、それが危ないと分かっていても食べたい。それが人間の本性の一つだ。大きな声では言えないが、内緒でレバ刺しを出してくれる店があるなら、是非行きたいとさえ思っている。たぶん、私だけではないはずだ。

禁止したって、絶対になくなることはないと断言できる。もっと言えば、絶対に安全なんて求めること自体が傲慢であり、無知だと思う。世の中には危険要素があふれている。危険そのものをなくそうとすること自体、不可能であり、無意味だ。

箱庭のような絶対安全と思える場所で育った子供は、危険に対する感性、対処能力が大きく劣る。子供をいくら安全な場所に囲っても、大人になれば危険があふれる世の中に出ていかざる得ない。

危険に対する対処法を知らない大人は、えてして大事故を起こす。傷つく痛みを知らない子供は、大人になっても他人の痛みに鈍感になる。そんな大人ばかりになったら、むしろ危険な社会が出来てしまう。

死の危険さえある食中毒は、昔から警戒されてきた危険の一つに過ぎない。多くの場合、匂いとか、見た目の異常さ、あるいは長年の経験から人々は危険性を見抜き、対処する知恵を育んできた。

それでも軽めの食あたりはなくならない。だが、それで良いと思う。事実、O≠P57は危険なものだが、これで死者が出るのはアメリカや日本など衛生面で進んだ先進国に限られる。清潔さが進んだ国ほど、食中毒に弱い。

私は不潔な国を目指せとは言わないが、あまりに清潔過ぎて、抵抗力や危険察知力、対処力が劣るようなあるような過度な安全対策は、むしろ逆効果だと思う。危険かどうかの判断は、人任せ政府任せ規制まかせにせず、まずは自分で判断できるよう努めるべきだ。過保護は人をダメにするぞ。
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プロレスってさ ハンス・シュミット

2012-06-07 12:03:00 | スポーツ

冷たく怒る奴は怖い。

冷静に暴力をふるう奴こそ恐ろしい。

そして、なにより怖いのは、冷静な観察眼をもって、淡々と他人を傷つける奴だ。こんな奴に痛めつけられたら厄介なことこの上ない。なにせ気絶することを許さない。

複数の相手に囲まれての喧嘩だと、まず素人には勝ち目がない。こんな時はてっとり早くやられてしまうほうが楽だ。亀のように丸まって、相手に好き放題殴られ、蹴られてしまい、さっさと気絶してしまうほうが楽だ。反応がない相手を殴っても面白くないので、普通はそこでおしまいとなる。

ところが、まれに気絶することすら許さない冷酷な奴がいる。致命的な個所は避け、神経が集中するような部位に痛みを加えてくる。しかも、適当な間隔を置いて痛めつけにくるので、一時的に回復するが、そこを狙って痛めつけてくるので、生かさぬよう殺さぬようにやられてしまう。

私はさして喧嘩が強いわけでもなく、その癖逃げ足が速いわけでもないので、2回ほどとっ捕まってリンチを受けたことがある。以前にも書いたが、自転車のチェーンで滅多打ちされた時は、本当に死ぬかと思ったが、すぐに気絶してしまったのでそれほど恐怖は残っていない。

しかし、もう一回の時は本当に怖く、今でもその恐ろしさは骨身に沁みて残っている。

まったくの不意打ちだった。突然押し倒されて、そのまま倉庫の裏に引きづりこまれた。その上、頭から綿布の袋をかぶせられて何も見えない。かろうじて呼吸はできたが、視野がないので恐怖で胃がひきつるような気がした。

ふくらはぎの上を刈り取るように蹴られ、床に倒れた時に聞こえた声で、隣町の中学の奴らだと気が付いた。頭に被された袋の上から紐のようなもので口の上を縛られて、大声が出せなくなった。

こりゃダメだと覚悟を決めて、体を丸くして衝撃に備えた。すると笑い声がして、思わず赤面した。が、次の瞬間、横っ腹を蹴られて悶絶した。のたうっていると、再び哄笑が聞こえる。少し痛みが引いたと安心したら、今度は腹の上を思いっきり踏まれ、胃液を吐き出す羽目に陥った。

そして耳に聞こえるは、嘲りの声。このままじわじわといたぶられるのだと分かり、絶望で気が遠くなった。

が、なにか金属音がしたと思うと、足音が錯綜し、誰かに抱えあげられて明るい場所に運ばれた。袋が取り払われて、明るい日差しに目が痛くなる。いや、涙目でぼんやりとしか見えないが、制服姿の大人の男性が私の背中の紐をほどいている姿が見えた。

マッポ?いや、警備員のようだった。そうか、ここは運輸会社の倉庫のそばだったんだ。そのあと、事務室で休ませてもらい、やっぱり呼ばれた警察官にあれこれ尋ねられた。

警察嫌いの私としては、無言を貫きたいところだが、私有地内の暴行事件というかたちで立件されてしまったので、仕方なく最低限のことだけ話した。いや、実際問題、目を塞がれていたので、声しか分らないのが実情なので、事実だけを話しておいた。

幸いというか、私はこの管内でとっ捕まったことがないので、哀れな被害者扱いで済んだようだ。なぜか母親には連絡がいかなかった(不在だったらしい)ので、家族に騒がれずに済んだことがうれしかった。

非常にいやらしいことに、目立った外傷がなかったせいか、警察もあまり捜査に力を入れなかったようだ。ただ、私の心理的なダメージは甚大であった。犯人と思しき奴らは分かっている。たぶん、少し前に渋谷のゲーセンでトラブった奴らだろう。

奴らの根城を無造作に通った私が間抜けといえば、そうなのだが、同い年であれほど冷酷な暴力を振るう奴は初めてだった。悔しいが一人で反撃する気力はなかった。だから、当時つるんでいた悪ガキ仲間にだけ、事実を告げた。

驚いたことに被害者は私一人ではなかった。皆、恥じて黙っていたようだ。恐ろしい奴らだと思った。おかげで、皆意気消沈してしまい、この件は立ち消えになり、私たちは少々世間を狭くした。しばらくはK公園近くをたむろするのは控えたのは当然の流れだった。

当時は認める気になれなかったが、奴は格上のワルだったと今にして思う。冷静、冷酷に人を傷つける奴は浮「とつくづく思う。

プロレスラーでいうなら、60年代から70年代にかけて活躍したアメリカのハンス・シュミットがそれに近い。なにせリングネームは地獄の料理人。

マットの上で表情を変えずに、淡々と相手をいたぶるファイトぶりからつけられたリングネームだと思うが、実際ピッタリの戦いぶりだった。もっとも使う技は、それほど厭らしいものではなかったと思う。

肘やパンチ、膝などの人体の鋭角の部分を利用して、相手を痛めつけるのが上手いだけでなく、相手が嫌がる体勢に持ち込んで、いたぶるように締め付けたり、投げつけたりするのが得意だった。

相手を抱きかかえて持ち上げ、床に鋭角に立てた膝にたたきつける大技は「シュミット式バックブリーカー」として、その名を後世に残した。今だから分かるが、それほど反則技を使うわけでなく、むしろ正統的な技で相手をいたぶる堂々たる悪役レスラーであった。

仲間とタッグを組んでも、その相方がふがいないとリング下で仲間である相方をぶちのめして制裁する誇り高き悪役であった。弱い悪役を許さないような気概が感じられて、子供の頃は、ある種の畏敬にも似た感情を抱いていた。ただ、あまり近づきたくないとも思っていた。

だって、怖いのだもの。

先月取り上げたコワルスキーともタッグを組んでいたが、壮絶な仲間割れをして大ゲンカとなったのは有名な話だ。コワルスキーはリングを降りれば快活なおじさんといった風情があったが、シュミットはリングを降りても怖い空気をまとっていた。たぶん、私生活でも厳しい人だったのではないかと思います。

地獄の料理人とは、言いえて妙だったと痛感しますね。

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オリンピック出場jを目指す意義

2012-06-06 12:27:00 | 社会・政治・一般

オリンピックって、そんなに偉いのか?

どうも良く分からない。芸能音痴の私だが、それでもお笑い芸人がカンボジア国籍まで取得して、マラソンでの出場を目指している話は知っていた。

どうやらロンドン五輪への出場は叶わぬようだが、国籍を変えてまでしてすることなのか、どうにも理解できない。

宣伝効果という点からすると、私でさえ耳にしているのだから、相当なものだと思う。

だが、この猫ひろしとかいうお笑い芸人のマラソンのタイムは、市民ランナーとしては立派なものだが、オリンピックでは標準記録にさえ怪しい程度のものでしかない。

間違っても日本代表に選ばれるレベルではない。本気でオリンピックを目指すなら、日本代表を狙うべきで、他の国の国籍をとってまでして出場を狙うのは、どうも感心できない。

もっとも、お笑い芸人としてみれば、ただこの一事をもって日本全国自分の名前が広まる点は無視しえない。なにせ、タダで広告してもらっているようなものだ。観客の目をひきつけてこそ芸人。

分からなくもないが、それでも軽い不快感を禁じ得ないのは、やはり国籍さえも道具としてしまう節操のなさからだろう。

やはりお笑いの二人組のうちの一人の女性が、女性ボクシングでオリンピックを目指し、先日敗退したようだが、こちらのほうがまだ納得がいく。彼女なりに真摯に頑張った結果であり、出場できなくてもそれは正当なものだったと思うからだ。

しかし、どうも猫氏のやり方は納得しえない。ぐだらぬ話題だと切って捨てたいところだが、日本国籍ってそんなに簡単に捨てられるものなのか。カンボジアで余生を過ごし、日本とカンボジアの架け橋にでもなろうというのだろうか。

やっぱりどうも納得しがたい話ですねぇ。知名度は上がったのでしょうが、反感も買った気がします。

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金融工学の悪魔 吉本佳生

2012-06-05 12:59:00 | 

ようやく少し分かった・・・かもしれない。

それにしても驚いた。まさか足し算、引き算、掛け算、割り算といった四則計算で出来るなんて思いもしなかった。

なにがって、デリバティブである。今日、金融の世界には意味不明なおどおどしい言葉が飛び交っている。ヘッジ・ファンド、ポートフォリオ、オプション、スワップそしてデリバティブといった怪しげな言葉が跋扈している。

この金融工学を駆使した研究によりノーベル賞を受賞した方もいるとか。ものすごく頭がいい理系の人たちを集めて、複雑怪奇な数式をコンピューターに組み込んで、日々数十億ドルといった資金を投じて、利益を生み出す摩訶恐ろしい世界。

そんな印象をお持ちの方は多いと思います。かくいう私とて、微積分の公式を駆使したマイロン・ショールズとロバート・マートン、フィッシャー・ブラックらだ世に出したブラック=ショールズ・モデルは、その算式だけで理解不能のお手上げ状態でした。

あげくに、そのショールズとマートンが参加したファンドが破綻したというのですから、私は高度金融工学に基づく金融商品なんざ、魑魅魍魎の世界だと敬して遠ざかっていたのが実情です。

その高度金融商品を、なんと四則計算だけで説明してのけたのが表題の著者。完全に理解できたというには、いささか自信がありませんが、かなり良く分かったことは確かです。

他にも私が抱いていた円高により、日本(政府、民間企業)が保有していたドル建て資産に莫大な損失が生じたという考えが、あまり正しくなく、適切な理解がされていないとの指摘は、まさに青天の霹靂。

久しぶりに勉強になった読書でした。いえ、最近仕事のストレスから小説ばかり読んでいたもので・・・

最後になりますが、表題の作ではありませんが著者を紹介いただいたニシタツさん、ありがとうございます。まだまだ勉強すべきことって沢山あるのですねぇ。

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ダークシャドウ

2012-06-04 12:06:00 | 映画

女の方が強い!・・・のかな。

私は概念的な意味での男女平等には関心がない。機会均等という意味での平等なら、そうあって欲しいと願っているが、結果の平等を求めることは間違いだと考えている。

だから女性の大臣が少ないとか、女性の社長が少ないから日本は遅れているなんて主張を耳にすると、馬鹿じゃないかと思っている。優秀な人材を適材適所に置くのが、組織のために必要なのであって、女性大臣、女性社長の割合なんて悪しき平等主義の顕われだと思う。

第一、少子高齢化の日本で人材を一方の性に偏らせること自体、間抜けな話で男女を問わず優秀な人材を活用せねば、斜陽の日本を支えきれないとも思っている。私のみたところ、男女平等とか女性の地位向上を声高に叫ぶ人よりも、自分のやりたいことを実現するために、手段として社長になる女性は確実に増えているように思う。

このあたりが面白いところで、社長の地位を目指す男は、声に出さねども少なくない。一方、女性は社長がどうこうではなく、やりたい事を実現するために社長になる。あるいは、組織内部での地位を捨てて、自分のやりたいことを実現するために個人事業主になったりするのも、どちらかといえば女性のほうが多いように思える。

もちろん、同様な行動をとる男性も少なくないが、やもすれば社会的立場とか組織内部のしがらみに縛られがちなのは、やはり男性の側であるようにも思う。女性であっても、男性同様の体面とかしがらみはあるのだが、その束縛の割合は低いように思える。

もっと言えば、女性的なとか、男性的なといった形容詞でくくること自体、あまり意味がないように思える。繊細で気配りの利いた経営をする男性社長もいるし、強力なリーダーシップで集団をまとめて、力強く組織運営をする女性経営者もいある。性差の問題ではなく、リーダーとしての在り方は個々人でかなり違う。

ただ、女性的なしなやかさ、女性的なたくましさとか形容しようがない独特なスタイルがあるのも事実で、男女差は確実にある。それは組織運営にプラスとなる場合もあるし、その逆もある。どちらが優秀かどうかは、個々の結果でしか判定できないと思う。それゆえに、私は男女平等には関心がもてない。異なる才能、才覚が平等である必要はないと断言したい。

そんな私が近年、なんとなく気になるのが映画、とりわけハリウッドの映画において女性の強さを強調した作品が増えているように思えてならないことだ。ヒロインが回し蹴りや、打撃で男性たちを圧唐キる場面をみることが、昔よりも確実に増えているように思う。

そして、そんな場面に喝采を送り、当然のものとして楽しむ観衆が普通にいること自体、ずいぶんと変わったものだと思う。少なくても60年代までのハリウッド映画には観られなかったと思う。

ただし、現実には格闘技など暴力行為に関しては、筋力で勝る男性の優位性は変わりはない。それなのに蹴り技や打撃などの暴力で、女性が男性を圧唐キる映像を出して、観客の歓心を買うのもどうかと思うが、それが売れる以上、致し方ないのだろう。

女性には女性の強さがあり、それが男と同じものである必要はないと思う。性差の違いは、能力にも違いが出るのも当然で、無理に同じにすることは不自然だとさえ思うことが多い。むしろ、違いを尊重し合うほうが前向きだと思うし、現実にはその方向性で動いているからこそ、女性の政治家や経営者が活躍しているはずだ。

だから、たまたま時間つぶしで映画館に飛び込んで、表題の作品を見たときも、やはり同様な違和感を禁じ得なかった。ネタバレにならない範囲で書きますが、この映画、つまるところ魔女対ヴァンパイア(男性)です。

魔女には魔女としての強さがあると思うし、せっかくの吸血鬼の能力もあれじゃ活かされていないと不満を感じてしまいました。いや、楽しめる映画である点は否定しません。第一、うたたねするつもりの私が、ついつい最後まで映像に引き込まれてしまったぐらい楽しかったのですから。

でもなぁ、あれじゃあ何のための魔女で、なんのための吸血鬼なのか必然性が薄い。そこが物足りない。200年の眠りから覚めた浦島太郎状態の吸血鬼が、現代文明に触れてのドタバタは、面白いは面白い。

また愛(独占欲だわな)と憎悪に悩む魔女の恐ろしさと、したたかさこそ見物だけど、吸血鬼とのバトル・シーンはむしろ余計に思えて仕方なかった。ホラー映画とするには浮ウに欠けるし、コメディ映画の資格もあるが、余計なバトルが興を削ぐ。

それでも最後まで眠らずに観られるだけの面白さはありますから、観て損をすることはないと思います。

でも、やっぱり男って女に弱いのだなぁ。憎んでいるはずの魔女の誘惑に戸惑い、悩めるジョニー・デップの怪演は、見る価値あるかも・・・です。

コメント (6)
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