ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

手書きの効用

2012-06-15 12:00:00 | 日記
手書きって大事だと思う。

私事で申し訳ないが、先月初旬に事務所のサーバー、PC、プリンター、コピー機などを総入れ替えした。何故かというと、リース期間が切れたからだ。格安の再リースも考えたが、今後のことを考えて最新機種に変更することを決断した。

率直に言って、現在の税理士業務にはコンピューターは必要不可欠だ。財務ソフトはもちろんだが、表計算ソフトの便利さは算盤、電卓を超えてしまったと言っていい。

税法は毎年のように変わるし、財務ソフトによる税額計算の速さは、もはや手書きに戻れないことを痛感させられる。ソフトのバージョンアップが頻繁になされるので、ハードもそれに対応できるようにしておく必要がある。

資金的にはかなり痛いが、時代に置き去りにされず、今後を生きていくための必要経費だと覚悟を決めての決断であった。

ところがだ、私は今でも手書きのノートを大事にしている。備忘録はもちろん、顧客別ノートもすべて手書きである。修正申告の予備計算や、資産評価の下準備もすべて手書きで記している。

これには理由がある。PCのワープロソフトを使った方が早くて綺麗で読みやすい記録が残る。なかでも無視しえないのが、書く速さと疲労度だ。これはどう考えても、キーボードを叩いて入力するほうが楽だし、早い。それは分かっている。

分かっていながら手書きに拘るのは、キーボードで書いたものは頭に刻まれないからだ。記憶に残らないわけではないが、手書きの方が圧涛Iに記憶に残る。また、手書きのノートの効用の一つに、修正や錯誤、迷いといった余計な情報が残ることだ。

手書きのノートには、途中で修正した痕跡や、判断に迷ったあげくの挿入文、後から付け加えたクエスチョンマークなどの痕跡が残る。これらの余計な情報が、のちのち役に立つことが少なくない。

ワープロソフトできれいに清書された文章だと、そのような余計な情報が残らない。最後はワープロで清書するにせよ、下書きの段階では手書きの記録のほうが、圧涛Iに情報量が多い。

もちろんワープロでもそのような情報の痕跡を残せない訳ではないが、あまり効率が良くない。それだけでなく、手書きの記録から漂うような曖昧な情報は残せない。字の乱雑さから当時の気持ちの乱れが読み取れることもあるし、文節の途切れ、余計な段落の隙間から判断の迷いが思い出せる。手書きのノートには、無駄で余計で邪魔な情報が残ってしまう。

だからこそ、手書きのノートは役に立つ。ワープロソフトで綺麗に清書された文章なんて、上澄みだけを汲み取っただけだ。底に澱んでいる最終的に切り捨てられた異なる結論、迷いなどがあったことを読み取ることは不可能に近い。

記憶力が鮮明な若い頃なら大丈夫かもしれないが、年々記憶力に自信がなくなってくる年になると手書きのノートのありがたみを痛感する。だからこそ手書きに拘りたい。

まぁ、ただ単に頭が悪いだけかもしれませんがね。
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特攻の拓 所十三

2012-06-14 12:04:00 | 

絶滅危惧種ではないかと思うことがある。

なにがって、暴走族である。私が十代の頃には全盛を極め、土曜の夜ともなれば幹線道路を数百台のオートバイが爆音と共に疾走していたものだ。マフラー(消音器)を改造して、わざわざ凄まじいエンジンの排気音が轟くようになっているため、騒音公害として話題になり、警察が本腰入れて取締りに入った。

だが、反発しざかりの思春期の若者たちは、警察になかなか屈せず、トム&ジェリーさながらの追いかけっこは、週末の風物詩となる始末であった。TV局が特番でやる警察24時のような番組で観られた方も少なくないと思う。

だが、それも今は昔のお話と化しつつある。今や都心で暴走族を見かけることは希で、地方都市の週末の夜に偶に見かける程度だ。しかも、かつて数百台が駆け回ったとは思えないほどの少人数になっている。

私はここ数年、20台以上のバイクからなる暴走族なんぞ見たことがない。

たしかに警察の取り締まりは執拗であったが、それが原因とは思えない。むしろ、バイクの高価格化が、怒れる若者たちからバイクを奪った。かつては、十万円台ぐらいで小型バイクが買えた。排気量400CC以上の中型バイクだって、20万から30万円前後で手に入った。中古ならば、さらに安い。

ところが、現在売られているバイクは、往時の倍近い値段となっている。ちょっと高性能なバイクだと50万を超えるものも珍しくない。かつてバイク乗りの憧れだった限定解除で乗れるナナハン(750CC以上の大型バイク)ともなれば、100万近いから驚く。

これでは簡単に買えない。むしろ中古の車を買ったほうが安いぐらいだ。ところが、今どきの若者はバイクはもちろん、車にさえ憧れを持たない。彼らが欲しがり、今や必需品なのはバイクでも車でもなく、携帯電話なのだ。

この携帯電話って奴は、購入価額はたいしたことがないが維持費がかかる。通話料とパケット通信で月々の支払いが5万円を超える若者は珍しくない。これではバイクも車も買うゆとりなんざない。

高速道路でバイクの集団を見かけることはあるが、暴走族であることは滅多にない。多いのは中高年のツーリング・クラブのツアーだ。目立つのは、かつての憧れの的、ハーレーダビッドソンのバイクにまたがったおじさん、おじいさんたちだ。

また最近では、大型のスクーターのバイク集団も散見する。イルカにまたがったかのような、ゆったりとした姿は週末の余暇を楽しむおじさんたち。たまに、昔のバイクで連れ立って走る元・暴走族と思われるオジサンたちを見かけることもある。レアものといっていい。

いずれも道路交通法規を順守している平和な市民そのもので、暴走族なんて歴史上の風物詩と化しているのが実情だ。

そんな現状を踏まえているせいか、今どきの若者が読む漫画雑誌でさえ、暴走族が出てくることは希だ。路上の不良少年たちが主人公の漫画ならば、ときおり見かけるが、爆音奏でるバイクにまたがった暴走族のお兄ちゃんが出てくる漫画は皆無に近い。

そんな風潮に反発するように、最近月刊ヤングマガジン誌上で、あの懐かしの暴走族ヤンキー漫画の「特攻のタク」のセカンドストーリーが連載されている。もっとも主人公はタクではなく、あのセロニアスだったり、マー坊だったりする。

私からすると、ネット上で大言壮語を吐いていい気になっているニートの若者より、喧嘩とバイクに取りつかれた暴走族のお兄ちゃんたちのほうが、よっぽど好ましく思えてならない。実際、面白い奴多かったしね。

とはいえ、バイクの暴走族なんて本当に絶滅が危惧される昨今。懐メロを聴くような感じて、表題の漫画を読んでいます。妙な時代になったものだと思うのは、私が年をとったからでしょうかね。

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尾崎紀世彦の訃報

2012-06-13 14:06:00 | 日記

先月末、何気にラジオを聴いていたら、歌手の尾崎紀世彦の訃報が耳に入った。

腹から絞り出すような歌い方が印象的な歌手であったと記憶している。代表的ヒット曲の「また逢う日まで」以外は知らないが、この一曲で歌謡史に名を遺した。

もう一つ、印象に残っているのはモミアゲだ。耳元から顎のあたりまで伸ばしたモミアゲが、えらく記憶に残っている。いささか親近感を覚えるといっても過言ではない。

なぜかというと、私の高校時代の綽名は「モミ」であるからだ。由来は当時、伸ばしていたモミアゲからだ。もっとも意識して伸ばしていたわけではない。もともと外見には無頓着で、無精なところがあり、気が付いたらモミアゲが伸びていただけだ。

許されるなら髭を伸ばしても良かったのだが、さすがに高校生では拙いことぐらいは知っていた。ちなみに高校卒業後の浪人時代に、一度だけ意識して髭を伸ばしたことがある。

分かったのは、髭の手入れは結構面倒臭く、手入れをさぼるとすぐに浮浪者じみてくることだった。いくら外見に無頓着でも、さすがにこれは気に入らずに、受験が終わると同時にすべて剃ってしまった。

この時、モミアゲを伸ばすのも止めてしまった。特に深い訳があったのではなく、この頃髭剃りの快感に酔っていたからだ。高校までは、髭剃りはもっぱら夜、風呂でしていた。自宅よりも銭湯が多かったのは、自宅の給湯器は台所だけで、髭を剃る場としては不適切であったからだ。

ところが高校卒業と同時に引っ越し、親元を離れて妹と暮らしたので、台所の給湯器を髭剃りに使うようになった。妹はちょっと嫌そうだったが、朝の髭剃りに温かい湯を使えるのは、実に気持ちのいいものだったので止められなかった。

髭剃りを朝にすると、目が冴えて気持ち良くなる。さっぱり感が好きだったので、モミアゲを伸ばすことを止めてしまったのが本当のところだ。大学がいわゆるお嬢ちゃん、お坊ちゃんが通うことで有名な、華やかなキャンパスであり、モミアゲを伸ばすようなスタイルが馴染まないことも若干影響した。

もっとも大学のWV部で長期の合宿に入ると、自然と髭が伸びてモミアゲも復活したが、下山してのお風呂であっさりとそり落としていた。こればっかりは、経験しないと分からないと思うが、長く伸ばした髭を剃るのは、とっても気持ちがいい。

この気持ち良さを味わうために、登山中はわざと髭やモミアゲを伸ばしていたのは否定しがたい。そり落としてスベスベの肌をなでながら、無事下山して下界の生活に戻れた喜びをかみしめたものだった。

昨年、ほぼ30年ぶりに高校の同窓会に参加したが、やっぱり皆からは「モミ」と呼ばれた。高校時代、一言も会話を交わしたことがない同級生も、私の顔も名前も記憶になくても、綽名だけは覚えていたと言われる始末である。相当にインパクトのある綽名であったらしいことが良く分かった。私は全然気が付かなかったのですがねぇ。

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スパイの告発

2012-06-12 13:30:00 | 社会・政治・一般
なぜこの時期、このタイミングなのだろう。

なにかって、共産シナの大使館員の事件である。どうやらスパイである可能性が高そうだが、それ自体は別に不思議ではない。世界各国にスパイを派遣し、情報戦で勝利してのスパイ活動なんざ、世界各国で行われている。

唯一、日本だけが怪しい。いや、怪しいのではなく、おかしい。現在、日本政府には正式なスパイ機関、いわゆる諜報機関はあるようなないような曖昧な状態に置かれている。いくつかあるにはあるのだが、国内向けの公安を別にすれば、国際的な活動はどうもあまりやっていないらしい。

平和を守るためには、諜報活動は必要不可欠なのが近代国家の常識だが、世界の常識は日本の非常識。中曽根内閣や小泉内閣時代に調査室のようなかたちで取り上げられたほかは、目立った動きはない。おかげで世界各国のスパイは、日本をスパイ天国だと揶揄する有様である。

実際、アメリカが日本に最新の兵器を提供するのを厭う最大の理由は、情報漏えいの可能性が高いことだ。スパイをまともに処罰する機関も法整備もされていない、世界で唯一のお間抜け国家が日本なのだ。

そのお間抜けが、今世界で最も諜報活動を積極的に行っているとされる共産シナのスパイを告発せんとしている。

いったい、どのような意図があるのか私には分からない。スパイの告発は、通常相手国においても似たような反発を招くのが通例だ。大概の場合、スパイ同士を追放し、追放し合うような幕引きを図り沈静化を図ることが多い。

ところが、日本に関する限り、そもそも国家としてスパイの派遣をしているかどうかが怪しい。たぶん、シナは無実の日本人を適当にみつくろってスパイとして告発して、幕引きを図るのではないかと私は予想している。少なくても、一方的に非違を認めることはない。

それはともかく、なぜ日本政府はこの時期に告発したのか。それが分からない。そもそも民主党はシナとのトラブルを厭うこと甚だしい。事なかれ主義が蔓延していえる霞が関の官僚たちも然りだ。おそらく外務省(害有省だと思うが)は苦々しく思っているだろう。知らんぷりを決め込んでいる。

ではなぜ、公安は外交問題に発展するのを承知で、この時期に告発したのか?

もう少し早い時期(春先)ならば、新年度予算獲得と人事考課のための実績作りだと言いたいことろだ。学生の左翼活動が尻つぼみになって以降、冬から春にかけて突然思い出したように元学生の過激派が逮捕されることが多かったが、あれなんぞ公安の自作自演との噂が絶えなかった。まるで公安警察の必要性をアピールするかのような逮捕劇を辟易しながら新聞紙面を見ていた元・学生運動家連中は少なくなかったと思う。

しかし、シナのスパイともなると話が違う。民主党政権にとってマイナスにはなっても、プラスになるとは思えない。してみると、官僚との反目が目立つ政権与党への嫌がらせか?

これまで民主党を支えてきた財務省の勝・事務次官の退任も囁かれているし、予算を通すことの出来ない与党に辟易している官僚は少なくないと聞く。すると、これは公安から民主党へのイエローカードなのか。

面の皮というより羞恥心が、ドジョウなみにヌルヌルしているらしい野田総理は、内閣改造を突発的にやらかして、この場をやりすごす意向らしい。平然と利敵行為をするような政治家を閣僚に選んだことを恥じる気持ちは、まるでないらしい。

本来であるならが、これを機に「スパイ防止法」等の導入を図るのが政府の役目だと思うが、消費税増税しか頭にない野田総理は眼中にないらしい。

おそらく関連はないと思うが、オウムの走る爆弾娘が突如、逮捕されたことでマスコミはシナのスパイ事件などもう過去の彼方へと追いやったようだ。日本を守る気概など皆無の反日自虐政治家の寄り集まりである民主党は、これ幸いと幕引きを図る有様である。

おまけに円は対ユーロで最高値を付け、円高基調は輸出産業に手痛いボディブローを叩きつけるばかり。こうなると、シナのスパイ事件なんざ、引き出しの奥に仕舞い込まれて、今後に活かされる可能性は皆無だ。

私としては、一刻も早く民主党政権には下野していただきたい。これ以上、日本を貶めないでいただきたい。この切なる願いをどうか聞き入れてもらいたいものです。
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MIB3

2012-06-11 14:57:00 | 映画

巡りあわせの不思議って、たしかにあるのかもしれない。

偶然出会い知己になった人が、自分の知らないところで自分の人生に関わっていた。そんな不思議って、希にだが確かにあるように思う。

白状すると、けっこう浮「と思っている。何度か書いているが、私はあまり良い子ではなかった。ずいぶんと悪いことをしてきた子供であったと自覚している。

悪がきヌマンタがやってきた悪いことには二種類ある。一つは暴力衝動を持て余しての、突発的な破壊行為だ。駅前の自転車をなぎ唐オたり、自転車で国道の真ん中を逆走したり、実に迷惑な子供であった。しかも、なお悪いことに、ほとんど捕まらず、発覚もしていないが故に、叱られたり怒られたりもしていない。

たから、内心ちょっと悪いことをしちゃったな、程度の認識で済ませていた。まァ、神様には寝る前に侘び入れたからイイやと自分に都合よく捉えている。

問題はもう一つの悪さのほうだ。これは書くのが辛い。物を壊したりしたわけでなく、心を傷つけるようなことをしでかしているからだ。しかも、ほとんどの場合、故意ではなく、無意識であったから始末が悪い。

自分でも、何故あのようなことを口にしてしまったのか分からない。何故あの時知らん顔をして見過ごしたのか分からない。理由は分からなくても、そのことがひどく人の気持ちを傷つけることは分かっていた。

分かっていながら、私は何もせずに済ませてしまった。ただ、自分がひどいことをしてしまったことは、なんとなく気が付いていた。その癖、なにもせずに済ませてしまった。

出来ることはあったと思うが、あの時はなにもできなかった。自分の無力を痛感するのが辛いが、それ以上に相手がどれほど傷ついたのか察していた自分が嫌だった。自己嫌悪を伴うがゆえに、私は長いこと忘れたふりをして生きてきた。

私の人生の貸借対照表に刻まれた負債だと考えている。いつかは返済しなければならない、そんな義務感が私を未だに悩ませる。私が恐れるのは、私の負債を知る人間がいて、ある日突然目の前に現れることだ。

あり得ないと断言できない。なぜなら逆のケースに実際に遭遇しているからだ。偉ぶる訳でもないが、私とて偶には良いこともやっている。私が忘れていた良いことがあると知った時の驚きは衝撃的でさえあった。その日、私は一人寝床で嬉しくて涙したよ。

だからこそ、ほぼ確信している。私の暗く重い負債を知る人が、いつか私の目の前に現れることを。きっと、それは私を打ちのめし、叩きつけ、ずたずたにするだろう。

表題の映画は、一作目も二作目もSFコメディが基調であり、それはこの三作目でも同じだ。有名人が画面の隅にちょこっと出ていたりして、隠れたハプニングも用意されており、至れり尽くせりの娯楽映画だ。

ただ、一点ほろりと感じ入ってしまう。そう、巡り合せって確かにある。あるんだよ。あり得ないと断言したいが、やっぱりあるんだ。エンターテイメント映画であるのは間違いないけど、ちょっと考え込まされました。

私は運命論者ではないけれど、運命って奴はあるかもしれない。出来るなら、笑ってその運命を受け入れたいものです。

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