この年になって、ようやく確信できるようになった。やっぱり科学は万能ではない。
科学的思考に基づき、この世の全ての理は論理的に解明できるとデカルトが宣して以降、人類の英知は確かに深く広く深まった。
だが科学の最先端を行く学者ほど、内心不安に思わざるを得なかった。せっかく頂点を極めたと思いきや、その頂点から更に遠方にそびえ立つ新たな頂点があることを知る。
いったい、何時になったら科学の頂上にたどり着けるのか?
たしかに科学は進歩した。しかし、未だに解明できていないのが、人の心の理りだ。脳内の神経系を行き交う微かな情報のやり取りが、人間の思考であることは分かっている。
しかし、その内容が分からない。必然、人間の心の病を癒す方法さえ模索中だ。そりゃ、たしかに進んだ抗うつ剤は出来た。これにより救われた人は少なくない。
しかし、その一方で精神病院から抜け出せない精神疾患の患者は増えるばかり。果たして人類は心の動きを解明し、心の病を完治させることができるのだろうか。
若干敗北めいた考えではあるが、私は現生人類の知能では無理ではないかと思っている。
人類がその知能を急速に発達させたのは、だいたい3万年ぐらい前だとされている。火を使い、肉や豆など生では消化しずらい食料を、焼いたり煮たりすることで、簡単に食べることが出来るようになった。
このことにより、良質な蛋白質を多量に摂ることが出来、それが脳の急速な発達を促したとされている。未だ完全に学会で認証されている訳ではないが、私はこの説を強く支持している。
急激なる変化は、必ずと言っていいほど、どこかに無理を生じさせる。心の病、すなわち精神疾患は、急激に進化した代償なのかもしれない。おそらくは、未だ人類の脳は発展途上なのだとさえ考えている。
論理は全ての理を解明できるかもしれない。しかし、人類の脳は、未だそのレベルには達していない気がしてならない。
近代的な科学に基づく医療が普及する以前は、この心の病を物の怪や魔物のせいにすることが多かった。人の知恵では及ばぬ病害や疾患を、妖怪のせいだとしたのは、人が編み出した必死な叡智なのだと思う。
そんな科学的医療知識の普及以前の世界、すなわち江戸時代を舞台に幾つもの短編を数多く発表しているのが、最近の宮部みゆきだ。
表題の作品もそんな短編集の一つ。なかでも「博打眼」と「討債鬼」が秀逸。入院中でしたが、私は三回も読み直してしまいました。まだ病室から出れない時だったので、繰り返し読める良作に出会えたのは幸いだったと思います。
思い込みは、時として人を不幸にする。
沢山勉強して、いい成績をとって、いい学校へ進む。そして一流の大企業に卒業して必死に働き、結婚して家族を得て、家を建て、ローンを支払い、定年を迎えてのんびりと老後を過ごす。
それが当たり前だと思い込んでいた。
だから、難病によりそれが出来ないと知った時、どうしたらいいか分からず苦しんだ。
この思い込みから自由にしてくれた一助になったのが、私にとっての西原理恵子の漫画であった。西原が描く漫画には、社会の底辺のそのまたどん底で喘ぐ人々が数多く出てくる。
地方の小さな漁港の片隅のドブ泥のような腐臭の漂う街で生まれ育った西原だからこそ描ける世界。馬鹿だから貧乏で、アホだから騙されて、弱いものがより弱いものを搾取する社会。
その悲惨さは、笑い飛ばすしかない悲痛な現実である。でも、そんな救いようがない世界にも、暖かい心遣いとか細くも心強い絆があることも描かれている。
どんな生き方をしてもいい、そんな無言の励ましを与えてくれるのが西原の漫画の魅力だろう。
次第に成長していく二人の子供の母として、この漫画を描き続けている西原は、時々恐ろしいほどに抒情的な短編漫画を描くことがある。この巻の最期にも、そんな話が織り込まれている。
校内暴力が吹き荒れる中学から登校拒否となり、自宅に引きこもった弟君に「こんな学校、辛い思いまでして来ることない」と諭す先生。
高三で妊娠してしまい進学を諦めたと姉が担任の教師に告白した。すると学校に内緒で登校して日数を稼げば必ず卒業させてあげると、パニックになりながらも必死で助けようとする先生。
こんな先生がほんとうにいるかどうかは分からない。でも、居て欲しいとの切なる想いが西原にあろうことは分かる。漫画界きっての無頼派だと言われる西原だからこそ描けた抒情漫画だと思う。
タイムトラベルは鬼門だと思う。
時間旅行がSFに取り上げられるようになってから、幾多の作品が作られてきた。が、正直言って、タイムトラベルものには傑作は少ない。理由は簡単で、まずタイムトラベル自体が、未だよく分かっていないからだ。
過去は変えられるのか。ならば未来も変わるのか。
この命題一つをとっても不確定でありそれゆえに、過去の不可逆性を多次元宇宙論などで回避させたロジックを利用した作品も書かれている。でも、どうしても中途半端感が否めない。
この映画でも、どうしてもタイムトラベルの矛盾が納得できず、それが中途半端感を残してしまう。過去を変えることで、未来は本当に変わるのか。この疑問がどうしても残ってしまう。
ストーリーは確かに面白いが、あのラストの機転により未来が変わったのかさえ曖昧となる。未来は変えられるとの前提を確信しきれない曖昧さが、作品全体をぼんやりとしたものにさせてしまう。
更に不満を感じたのが準主役といっていいブルース・ウィルスの存在。ファンの方には申し訳ないが、ブルースの存在感の強さが邪魔だったと思う。おかげで作品全体のイメージがばらついてしまっている。
人気スターの集客力は分かるが、あれではストーリーのバランスが崩れてしまう。そこが残念に思えてならなかった作品でした。
嘘をつくのは、傷つきたくないからだ。
嘘をつかずに生きていけるほど、人生は甘くもないし、優しくもない。嘘は傷口を覆うカサブタのようなものかもしれない。
カサブタ自体は綺麗でもなく、柔らかくもなく、むしろ見た目はグロテスクだ。だがカサブタがあるからこそ、その下で傷口は優しく癒される。
だが、嘘に嘘を重ねて生きていくと、カサブタの醜さに心苦しくなる。誰かにカサブタの下の真実を告白したくなる。
表題の作品では、子供たちがどうしても付かざるを得なかった嘘に苦しみ、森の中の巨木のもとで告白をしたことで秘密を共有し合う。
だが嘘をついて真実を隠すことを止めることができないが故に、一つの事故が起き、3人は散り散りに生きることになる。
それから17年、嘘を隠し通りながらも陽のあたる世界で生きてきた3人。でも、カサブタの醜さは平凡な幸せを得ることを許してはくれなかった。
誰が一番悪いのか、他に生きる道はなかったのか。答えのない苦悶を読者は共有せざる得ない。読後感は決して爽快でもなく、快活でもない。
それでも一度は読んで欲しいと思うのは、この作品が突きつける問題を身近なものとして考えて欲しいと願うからです。是非、どうぞ。
実のところ、ICUを三日で追い出されてからは、あまり語るべきことはない。
一般病棟では、カテーテルを抜かれた直後はベッドから動けなかったが、すぐに安静度は緩和されてトイレぐらいなら歩いていけるようになった。これだけで、私のストレスは激減した。
もっとも歩く速度はカタツムリのように緩慢で、わずか数日の寝たきり生活でこれほど体力が落ちるとは思わなかった。これはこれで、ちょっと精神的に堪えた。これは退院して社会復帰した今も悩みの種で、朝の通勤ラッシュはかなり体にキツイ。
一般病棟に移って何が嬉しかったって、食事が出たことだ。ICUでも少し出たが、寝たきりの状態であったので、まともに食べることが出来なかった。ベッドの上とはいえ、身体を起こして食事できるのは、本当に嬉しかった。
もっとも初回は4割ほど残してしまった。まだ身体の回復がそこまで十分ではなかったらしい。これは私としてはたいへん屈辱であったので、二回目からは全て平らげた。食べて体力をつけることが、私の使命だと任じていたからでもある。
次に私が苦しんだのは、活字中毒の禁断症状が出たことだ。トイレとナースステーションまでは歩けたが、そこでお終い。売店に行くことも出来ず、私は活字に飢えていた。
そんな私の目に飛び込んできたのは、掲示板に張られた院内図書室の存在であった。是非行きたいと切望したが、場所は2階であり、まだ5階の病棟の一部しか動けない私には遠すぎた。
ところが週に一回、ボランティアの方が本の一部を移動式ラックに入れて各病棟を巡回していることが分かった。それを待って私は数冊本を借りることが出来た。これでとりあえず、活字中毒の禁断症状は改善された。これはありがたかった。
やがて5階のフロアなら、どこでも歩いて良いことになった。シャワーと入浴の負荷テストにも合格して、病院内なら自由に動けるようになった。もちろん、真っ先に行ったのは、2階の図書室であることは言うまでもない。
誤算は院内の売店で、これはローソンが運営しているのだが、確かに病院の敷地内ではある。でも、病棟の入り口を出て、徒歩15メートルほど歩く必要があった。外套を着てならともかく、寝間着一枚で外に出るのはいささか辛い。
だから売店に行く時は晴天の日の午後に限られた。寝間着一枚で売店に行く馬鹿なんて、そうはいないと思っていたら、私以外にもけっこう居たのが面白い。やっぱり、入院生活は退屈なのだろう。
当初、二週間で退院の予定だったのだが、この季節カテーテル手術の需要は多いらしく、私の担当医は大忙し。白衣を着ているよりも、手術用の青い服を着ているほうが多かったぐらいだ。
おかげで退院予定が一週間伸びたのは痛かった。ただ、慎重を期してカテーテル検査をした結果、詰まっていた血管は良好に血が流れていることが確認されたのは嬉しい情報だった。一部壊死した心臓も、早期の手術の甲斐あって、機能はほとんど低下していなかった。これは本当にありがたい。
だからといって、今後毎日血をサラサラにする薬を生涯飲み続ける現実に変わりはない。もっとも、これは高血圧対策の降圧剤で経験済みなので、私としては少し手間が増えた程度の負担でしかない。
変な言い様になるが、私のような難病歴のある人間は、生涯病気と連れ合って生きていく覚悟が必然であり、その意味では手慣れたものだ。それでも新しい薬が増えるのは、やっぱりあまり嬉しくはない。
でも、きちんと服用するだけで、ある程度の健康な生活が維持されるのなら、むしろ喜ぶべきなのだろう。人生、山あり谷ありというが、どうも私の人生は浮き沈みが激しいようでならない。
私個人としては、もう少し落ち着きのある人生が希望なのだが、なかなか思うようには生きられないものだ。まァ、無事に生きていれば、そのうち良いこともあるでしょう。