難病に苦しんだ20代の頃には、延で2年近く入院している。
しかし、ICU(救命救急センター)に患者として入るのは初めてだ。手術を終えて日曜の午後から月曜の夕方までは、睡眠薬等を投与されていたので、あまり明確な記憶がない。
ただ、妹と事務所のスタッフにはえらく心配をかけてしまい、それだけに早く復帰せねばとの決意を固くしたことだけは、はっきりと覚えている。
私は鼠径部(股間ね)からカテーテルを挿入され、右足はすぐに抜かれたが、左足付け根からのものは、血液をサラサラにする薬剤を投入するためにそのまま残置されてあった。
当然、身体を起こすことは出来ないし、左足を動かすことも厳禁であった。これが問題であった。なにせ、私の寝相は良くない。
鼠径部からのカテーテル残置は、20代の頃に経験済みなので、それほど不安はなかった。しかし、足が無意識に動くのを止めるのは至難の技であった。
おかげで看護師から頻繁に注意を受けた。でも、意識して動かしている訳ではないので、注意されても無駄だ。私だって好きで動かしている訳ではない。
ただ、右足は多少動かせるので、それだけが救いだった。私にとって最大のストレスは、左足を動かす度に看護師から強く注意されることだ。繰り返すが、無意識の動きは、いくら怒られても止まらないぞ。
事件が起きたのは深夜であった。うつらうつら寝ていた私は夜中に目を覚ました。妙な違和感がある。なんと両足が動かせない、いや、多少動かせるが、すぐに足首を縛られてベッドの柵に結ばれていることに気がついた。
瞬間的に脳内湯沸かし器が沸騰した。
なんじゃ~、これは!
叫ぶと同時に脚をばたつかせて騒音を立てた。驚いて駆け寄る宿直の医師と看護師。怒り、興奮冷めやらぬ私と彼らとの激しいやり取りの後、右足の紐ははずされた。当然である。
でも、左足については、私も納得していた。これは致し方ないと思うからだ。でも、元々ある程度動かしていいと云われていた右足は、あんまりである。縛られるストレスが如何程のものなのか、よくよく考えて欲しいものだ。
ところが翌朝から、ICUの看護師さんたちの私への態度が急変した。どうやら問題患者と認定されたようで、予定よりも早くに一般病棟へ追いやられてしまった。
まぁ、私としては本望なので文句はない。今回のことで分かったのは、ICUというところは緊急時の患者の受け入れ場所で、患者個人の気持ちとかストレスには、案外無関心であることだ。
これは致し方ない部分もある。命の危険があるからこそのICUなのだ。患者のわがままにまで付き合うゆとりは少ないのであろう。一応書いておくと、私は胸の痛みがなくなったので安心していたが、実際は心筋の一部が壊死している状態であり、決して安心できる状態ではなかったらしい。
ただ、怒って怒鳴るぐらいの元気があるなら、一般病棟でも構わないと判断されたらしい。公平を期すために書いておくと、ICUの全ての看護師が事務的に私に対処していた訳ではない。
私のストレスを勘案してくれて、背中をさすってくれたり、無駄話に応じて気遣いしてくれた人も確かにいた。でもICUは忙しすぎる。私一人にかまってはいられないのだろう。その意味で私はわがままに過ぎたと思う。
でも反省なんてしていない。脚を縛るのなら事前に説明があってしかるべきだ。納得した上で拘束されるのなら、私だって我慢した。縛りでもしないと無意識で左足を動かしてしまい、その結果出血する危険性ぐらいは分かっているからだ。
ただ、この一件はかなり後に響いた。担当医ともこの件では、何度となく話し合うこととなったが、未だ互いに完全に納得している訳ではない。看護師にせよ医師にせよ、プライドのかなり高い人たちなので、そう簡単には納得できないのだろう。
でも、私は病院通いが長く、医療というものを過信してはなく、むしろ不完全なものだと諦めているぐらいだ。可能性の中でのベターの選択がせいぜいだとさえ考えている。単に医療の権威だけを振りかざされても、私は納得できないのだ。
たしかに医療は身体を治すことに特化しているのだろう。でも、心と身体は一体であることを忘れて欲しくない思う。
突然夜中に飛び起きた。
体の中に妙な空白感があって、私はそれを空腹だと理解した。とりあえずコーンフレークを食べて、おやつに蜜柑を食べながら、でもちょっと違うなぁと妙な違和感を感じていた。
明けて土曜日。仕事に行くつもりであったが、どうも体が重苦しい。もしかしたらの思いが拭いきれない。実は数年前だが、先代の故・佐藤先生が心筋梗塞で入院して、開胸手術をやっている。その時に聞いた症状に酷似しているのだ。
念のためネットであれこれ検索してみると、やはり心筋梗塞臭い。明日は朝から出かける用事があったので、月曜日にでも病院に行くかと考えて、早めに床に就く。
そして、再び夜中に飛び起きた。奇しくも同じ時間帯であるが、今度は左腕が痺れるように痛く、左胸は締め付けられる。これは危ないと思い、生まれて初めて119番に連絡して救急車を呼ぶ。
待つ間に、健康保険証など最低限の準備を済ませる。救急車のサイレンが聞こえてくると、自宅の電話が鳴り救急車からの確認であった。もう一度番地を告げて待つが、どうもサイレンは近づいてこない。
窓から覗くと、なんと隣の建物の前に駐車している。待ちきれなかったので、革ジャンを羽織り、鍵を締めて家を出る。少し苦しいが、救急車まで行き、私が通報者だと告げて乗り込む。
どうも、この時点で救急隊員は私を偽装患者ではないかと疑っていたらしい。ところが車内の心電図で「こりゃ、本物っぽいよ」などと囁き(聞こえてるっちゅうの)、搬送先の病院を探す。
私が希望した病院は、心臓の当番医師がいないとかで、どこか聞いたことのある病院名を告げられた。後日分かったのだが、高校の時の通学路沿いにある病院だった。
救急隊員から近親者を教えてくれるよう指示があったので、ポケットのメモに予め書いておいた妹を指定する。この時点で既に4時を過ぎている。
ここから病院でレントゲン、エコー、造影剤を注入してのCT検査と忙しない。そうこうしていると上の妹が到着。軽く挨拶して、それから2時間ほどのカテーテル手術となった。
ところが、ここからが長かった。局所麻酔だけだったので、手術中は意識がしっかりしていたので、術中の医師の困惑した声が直に耳に入る。どうみても既に2時間は経過している。結局終わったのは昼前であり、5時間を超す手術となってしまった。
手術が長引いたのは、私の心臓まわりの血管が異常に太いためだった。通常は2ミリ程度なのに、私の血管はその倍以上あった。だから、本来は詰まりにくい血管であり、三本ある動脈のうち二本は至って綺麗だったらしい。
問題は心臓の裏にあるもうひとつの動脈の先に瘤があり、その直径は10ミリもあり、血液が滞留してそれが血栓となって詰まってしまったようだ。あまりに血管が太すぎてステントは使えず、また血栓も大きすぎて除去が難しい。
局所麻酔だけだったので、私の耳には執刀医の困惑する声が入ってくる。かなりの難儀の末、バルーンで血管を広げ、血栓を溶かす薬をカテーテルから流し続けることで、詰まった部分を改善することに落ち着いたようだ。それゆえに長時間の手術となってしまったらしい。
気の毒だったのは妹で、処置室の近くにいるようにと指示されていたので、6時間あまり待機させてしまった。妹よ、済まなかった。そしてありがとう。
それから3階のICUに運ばれて、数日をここで過ごすこととなる。これがまた難儀であり、ひと悶着起こしてしまった。
人間は他の生き物を食べて生きている。
20代の頃は長期の自宅療養を経験している。薬を飲んで寝るだけの毎日だが、それだけでは退屈過ぎる。だから本を読んだり、ヴィデオを観たり、いろいろ暇つぶしをやっている。
その一つに料理があった。とにかく時間だけは有り余るほどあったので、手のかかる料理にチャレンジしてみた。その代表がコンソメスープ(チキンブイヨン)作りだ。
予め精肉店に鶏がらを頼んでおいて、まずは大鍋に入れて煮込むところから始める。セロリや人参、ローリエも同時に煮込む。鶏がらからは、どうしても血合いが出てきてスープを濁らす。だから二時間ほど煮込んだら一度スープを捨てる。
もったいない気がするが、これをやらないと澄んだコンソメスープにならない。二度目の煮込みでも、アク取りは欠かせないし、何度か濾す必要がある。こうしてあの黄金色の香り豊かなコンソメスープは出来上がる。
ところで、私は初めて作った時は失敗している。鶏がらから出た血合いにより濁ったスープを捨てなかったのだ。おかげで濁ったコンソメになってしまった。風味も少し野趣臭くなってしまった。
でも、今になって思うのだが、あれは本当に失敗だったのだろうか。私がスープを捨てるのをしなかったのは、あまりに芳醇な香りに魅せられたからだった。
たしかに血の濁りはあった。香りもレストランで味わったあのコンソメスープの香りではなかった。でも、より濃厚で、香りがふくよかだったように思う。多分、鶏がらスープの根源的なものだったと思う。
コンソメスープはその根源的な野生の香りを香草類などを使って排除し、上澄みだけで作られるのだと思う。
別にコンソメスープに限らないが、現代人は上積みだけ食べている。スーパーで売られている食材の大半がそうだ。血が大量に流れていたはずのもも肉は、綺麗に切り分けられて、血が流れていたことさえ思い出せない。
チキン料理を食べる時、ニワトリが締められる時の苦悶の声を思い出す人はまずいない。首切られ、血抜きのために逆さ吊りされた下に貯まる血の池からあがる蒸気なんて、見たこともないのが普通だ。
生き物が生きてくために必要なドロドロした部分を切り分け、清浄化された部分だけを我々は食べている。かつて、鳴き声を上げ、地面を駆け回り、暖かい血が流れる生き物を食べていることを自覚することは、まず滅多にない。
私は自然保護といった言葉が嫌いだ。自然の上澄みだけを保護しようとする自分勝手、人間本位の傲慢だと思っている。自然は決して優しい代物ではないし、美しいだけでもない。
自然には美しくもなく、優しくもない獰猛で醜悪な部分もある。それもまた自然の姿だ。そこを無視しての自然保護、自然との共生なんて、薄っぺらな自己満足、自己欺瞞にしか思えない。
極端な言い方だと思うが、仲間や家族がクマに食い殺されてもなお、クマを保護しろと主張する覚悟があってこその自然との共生だと思う。自然に害される覚悟がない自然保護なんて、上澄みだけの自然しかみてないと思う。
北国の山、東北の森を舞台に小説を書き続ける作家、熊谷達也が読者の前に提示するクマ問題。里山を離れて街中にまで出没するツキノワグマのニュースは誰しもが記憶にあると思う。
クマに怯える地元住民と、絶滅を危惧されるツキノワグマの保護を訴える自然保護団体に挟まれて苦渋する自治体政府。利益にならぬ報道には関心を持たないマスコミと、これまた絶滅が危惧されるマタギたちの悩み。
正しい答えが見いだせぬなかで、より良き解決法を模索する人々の相剋には、自らの無知さを自覚せざるを得ない。
人間にとって都合のよい自然を守ることが正しいと言えるのか、この本は痛烈に読者に問いかけてくる。ツキノワグマを通して自然保護と人間社会のあり方を問う良作だと思います。是非、どうぞ。
そう教えてくれたのが、ホテルの支配人だった。私は高校を卒業して一年の浪人の後に大学に入学し、無事卒業したわけだが、その間5年余りを渋谷の某ホテルの駐車場でアルバイトをして過ごした。
アルバイトと云えどもホテルの従業員であり、口が堅いことは当然の義務であった。だがホテルというところは人間社会の縮図的な一面があり、噂話が出回るのも早い。
だって皆、噂話が大好きなのだ。ただ、さすがに相手を選ぶ。同じホテルマン同士だと、互いに守秘義務があると分かっているせいか、むしろ噂が過剰に飛び回るように思う。
ホテルの地下には従業員用の休憩室があり、私はそこでお湯をもらってカップラーメンを食べることがあった。その日も3分間待つのだゾとカップラーメンを前に我慢のひと時を過ごしてた。
すると顔なじみのフロアスタッフのGさんが見慣れぬ顔の同僚を連れてきて同席してきた。Gさんは彼に私を紹介してから、「こいつ、俺の同期で、系列のIホテルからの都落ちしてきたのさ」と教えてくれた。
都落ちと言われたBさんは、「都落ちはひでえな、一応出向なんだけどよ」と笑顔で応じている。系列ホテルでもIホテルはかなり格上なので、都落ちも分からないでもない。
私は黙ってラーメンをすすりながら二人の会話を聴いていた。
Gさんが「しかし、まァ、よく出向を認めてくれたよな」と云うと、Bさんは「だって毎晩俺だけだぜ、我慢できなくてさ。」
なんの話だろう?私が訝しげな表情でいたのでGさんが解説してくれた。
なんと、Bさんは毎回夜勤のたびに同じ幽霊を見るので、それが嫌で転勤を申し出ての出向だそうだ。ホテルの従業員は、わりとお化けの話に慣れているので、Gさんは当たり前のように話すが、お化けに縁のない私はつい「お化け・・・ですか」と不思議そうに答えてしまった。
たぶん、Bさん話したかったのだろう。私に事情を話してくれた。
Iホテルは某観光地の温泉ホテルであり、かなり人気がある。そこの浴場がある棟のスタッフだったBさんは、ある日宴会場の係りを任された。なんでも還暦のお祝いのパーティで、主役の老人とその家族や友人たちが集まって盛大なものであった。
主役の老人は赤いちゃんちゃんこを着せられて終始上機嫌。宴会場係りとしては楽な仕事だったよと、ちょっと懐かしげな表情でBさんは話す。ただ、問題はその後のことだ。
これは温泉に限らないが、どこの入浴施設でも泥酔状態での入浴は禁じている。宴会などが多い週末は、酔ったお客さんが風呂に入ることが多く、そのホテルではスタッフがお風呂を巡回するシステムになっていた。
深夜の巡回をしていたBさんは、露天風呂のそばの脱衣所で注ラ工の椅子に座っている老人に気が付いた。浴衣の上に赤いちゃんちゃんこを着ていたので、昨夜の宴会の主役の老人だと分かった。
どうもほろ酔い加減で、気持ち良さ下に笑みを浮かべて「ここは景色がいいねぇ」と話しかけてきた。少し会話に応じ、その際「お酒を飲んで入浴してはダメですよ」と云うと、その老人「大丈夫、大丈夫。でも、ここで転んだら笑いものだから入らないよ。」と笑顔で返事して部屋に戻っていったことは今も忘れずに覚えている。
だが翌朝、警備員が露天風呂を覗くと、そこには湯に浮かんでいる老人の姿があった。あわてて救助するもすでにこと切れていた。
家族の方に聴くと、深夜に部屋に戻って一眠りした後、明け方にもう一度風呂に入ってくるといったきり、戻ってこなかったらしい。死因は心不全であり、別段事件性のある死亡ではないと判断された。
一応聴取は受けたが、Bさんに瑕疵はなく、特段ホテルの支配人から問題視されることもなく又家族からの苦情もなかった。ただBさん自身は、最後に声をかけたホテル関係者として、いささか責任を感じてはいた。だから風呂の巡回には、より一層注意を払うように心がけていたそうだ。
その事件から一月が経過した夜のことだ。いつものように風呂を巡回して、鍵を閉めようとするとき、露天風呂のほうに赤い人影を見かけたのが最初だった。まだ入浴客がいたのかと驚き、あわてて露天風呂に行くも人影は消えていた。その時は勘違いだと思ったが、あの赤いちゃんちゃんこの老人を思い出したのは仕方ない。
その後も、Bさんが巡回する深夜には、必ずといって良いほどお風呂に赤い人影を見ることが続いた。さすがに不気味に思い、同僚や警備員に同行を頼むと、その時はまったく見かけない。Bさんが一人の時に限って、あの赤い人影が現れるようなのだ。もちろん、他のホテルスタッフは誰一人そんな人影はみていない。
でもBさんには、その赤い人影が見えてしまい、いささかノイローゼ気味になってしまった。そこで上司に事情を説明して転勤願いを出したところ、この渋谷の系列ホテルへの出向となったそうだ。
Bさんは「別に悪さをされたわけでもないのだけど、俺だけしか見えないのが嫌でねぇ」と複雑そうな表情を浮かべて苦笑いしていた。わたしが、このホテルは露天風呂はないから大丈夫なのでしょ、と言うと、にっこり頷いてくれた。その幽霊、露天風呂が好きなのだろうか。
傍で聞いていたGさんは、「この業界分からないこと、けっこうあるよな」としみじみ言うので、一応頷いておいた。ここでお化けを否定するほど分からず屋ではない。
あれから30年たった。なんで、この話を思い出したのかと云えば、先日の大雪の夜のことだ。
大雪で中央高速は走れず、一般道は大渋滞なので止む無く24時間営業のスパで仮眠することにした。そのスパは露天風呂が綺麗なので、以前から何度か入浴している。その夜は大雪のせいで、露天風呂は雪景色であり、寒いが心地よい入浴を味わえた。
風呂を上がり、休憩室で同行者と待ち合わせて冷たいジュースを飲んでいたら、妙なことを言い出した。
「このスパ、赤色の室内着なんてあったっけ?」
え、男は水色で、女性は黄色でしょと答えると、「露天風呂の脇の渡り廊下のベンチで、赤い室内着を来た人影をみた。でも近づくと誰もいなかっただよね。なんだろう?」
見間違いではないかと思ったが、それは言わずにそろそろ寝ておこうぜと言ってその場を後にした。仮眠室で横になっている時に思い出したのが、あの30年前のバイト先での会話だった。
なんか無性に気になったので、お風呂が再開(深夜は聡怩ナ閉鎖)した明け方に、もう一度露天風呂に一人でいってみた。痛いほどに冷たい空気と、温かい露天風呂の組み合わせは、気分をさっぱりさせる。良い気持ちで風呂を出て着替え、まだ薄暗い露天風呂をみてみたが何もない。
当然だよな、と思いつつ、ふと渡り廊下の奥に目をやると人影がある。あれ、あそこ立ち入り禁止の場所だよな。赤い室内着ではないようだが、ぼさぼさの髪型がシルエットから分かる。誰だろう、この寒い中であんな場所に座っているなんて。
その時、同行者から携帯で呼ばれたので、すぐに立ち去ったが疑念が残った。もしかしたら、あれはお風呂でおぼれ死んだ人の霊ではないだろうか。だとしたら、初お化けだよな。
無性に気になったので同行者に話すと「よせよ、気持ち悪い」と引き止められた。この場で言い合うのも不躾な話なので、その場は引き下がった。でも、もう一度観に行ってやろう。
トイレに行くと嘘をつき、さっそく渡り廊下に向かう。日が昇ったせいで、さっきより明るい。おかげで人影なんてないことだけは、はっきりと分かった。やっぱり気のせいかと思ったら、暗がりにぼさぼさ頭の人影が見えた。
ちょっと心臓ドキドキしながら近づいてみた。ついに最初のお化け遭遇か!
10メートルほど近づいてみたら正体がわかった。なんと暗がりにモップが数本、椅子に立てかけてあり、それがぼさぼさ頭に見えたらしい。しかもご丁寧にも赤いマットが椅子にかけてある。
これか、赤い人影は。まったく人騒がせな話だ。おそらく雪明りで錯覚したのだろう。まァ勝手にこちらが空騒ぎしただけなんだがね。でも、やっぱり私はお化けに縁がないらしい。ちょっと残念でした。
眠れる獅子と恐れられたシナが、張りぼての獅子だと分かった途端、欧米各国は貪欲に貪り食った。
シナはこの屈辱を決して忘れはしない。現在の中華人民共和国の創設者である毛沢東は、シナの経済復興には失敗したが、軍事指導者としては秀逸であった。
技術力に劣るのを承知していた毛沢東は、朝鮮戦争に100万を超す兵隊を送り込み、その人海戦術でアメリカを中心とした国連軍を恐怖さしめた。この実績こそが、国連の常任理事国の座を台湾から奪い取る結果につながった。
軍事力こそが、国家の基盤であることを痛感しているのがシナである。経済よりも、文化よりも、なによりも軍事力。これが国際政治の基本である。だからこそ、貧しい農民を搾り取って財源を集め、核兵器の開発に夢中になった。
核兵器を搭載した弾道ミサイルの開発にも成功したシナが、次に求めたのが海洋覇権である。覇権国となるには強大な海軍力が必要だと考えたからだ。なぜ海洋覇権を目指したのかと云えば、やはり背景にあるのは資源問題だと考えられる。
軍事力により国家基盤を固めたシナにとって、最大の問題は経済成長により国民を食わせていくことだ。皮肉なことに経済成長が進めば進むほど、国内資源の限界に直面せざるを得なかった。
砂漠化と水不足、工業化による環境汚染と地下資源の枯渇問題は、シナ政府をして経済開放をしてまでも取り組まねばならぬ大問題である。予想されたとおり、既に食料も石油も輸入をしなければ、この膨大な数の国民を養うことができずにいる。
だからこそ、海洋の交易ルートの確保と、海洋資源の獲得は絶対に引くことのできない課題なのだ。
まずは南沙諸島及び西沙諸島を侵略した。ヴェトナムやフィリピン、インドネシア、マレーシアなどがいくら文句を言おうと、軍事力で支配を正当化させてしまう。この地域にアメリカが固執しないことは織り込み済みだからだ。
問題は、台湾から沖縄そして九州にかけての南シナ海だ。このラインはアメリカが防衛圏と定めているがゆえに、容易に侵略できない。だが諦めることは出来ない。だからこそ、尖閣諸島で妥協することは出来ない。これは国家の存亡に係る重要課題なのだから。
だから、今後もシナは尖閣諸島への侵犯を続ける。決して諦めない。
そのためには、アメリカ軍に対抗できる海軍力が必要不可欠だ。だからこそ旧・ソ連から建造中止となった空母を買い取った。当初はカジノとして運用すると嘘をついてまでして入手した。それがシナ海軍の虎の子である「遼寧」だ。
さて、この空母・遼寧は尖閣諸島海域に来るだろうか?
現時点ではありえないし、当分(最低5年以上)は来ないと予測できる。理由は簡単で、このシナ海軍の虎の子は、文字通り子トラであり、実戦能力皆無。
写真を見てもらえばわかるが、先端がスキージャンプ台のように持ち上がっている。これは飛行機の発着装置(カタパルト)の開発が出来なかったからの発着方法であり、重量の軽い機体しか発艦できない。つまり爆弾やミサイルなどを搭載した艦載機の発艦はまず不可能。
前にも書いたが、空母の発着装置(カタパルト)は非常に難しい構造で、アメリカ以外で実用化に成功した国はない。だから空母を保有した国の大半は、爆弾等を搭載した艦載機の運用は諦めている。
更に付け加えると、艦載機の発艦時には向かい風を利用するため、風上に全速航行するのだが、この遼寧スピードが遅い。旧・ソ連が蒸気タービン式のエンジンを撤去してシナに売り払ったとの報は、まず本当なのだろう。
現在のシナの技術力(とりわけ冶金技術)では、高出力に対応できるタービンの生産は難しい。おそらくこの遼寧のエンジンはディーゼルなのだろう。そうなると、航行速度は20ノット程度であり、アメリカ空母の6割程度にとどまる。これでは、ますます重量級の艦載機の発艦は無理だ。
また空母は複雑なシステムの塊であり、実戦運用できるのは4か月程度が限界。通常は、3隻必要でメンテナンス、訓練、航海の三パターンに分けて運用する。一隻では常時戦力としては使えない。
つまり現時点では、この空母・遼寧は訓練用、試験用としての運用しか出来ない。もちろん進展著しいシナの経済力、技術力を考えれば、いずれ実戦投入可能な空母及び艦載機を出してくる可能性はある。
あるには、あるが当分ない。何故なら基幹技術の大半は未だシナが保有していないことが明白だからだ。これはシナ空軍が保有する戦闘機などからも推測できる。シナが保有する戦闘機は、大別して二種。すなわちJ10とJ11なのだが、どちらも外国の機体のコピーであり、自力で開発したものではない。
もっとも面の皮の厚さには定評あるシナ人である。あくまで自主開発したと言い張っているが、嫌気がさしたロシアがエンジンなどの基幹技術を渡すことを拒否しているので、止む無くエンジン部品は輸入している。
ジェットエンジン自体を開発する技術力はあるが、高出力のジェットタービンファンを作る技術はさすがにない。これはどこの国でも最高機密に近い技術であり、他の国も容易に提供はしてくれない。
冶金技術というものは、IT技術のように容易にコピーできるものではない。日本でさえ、戦車や機関砲に使う銃身の製造技術は、あまり高いとは言えない。これは実戦体験が戦後半世紀にわたりないせいでもあるが、機密情報が多くて外国からの技術導入が困難なせいでもある。
いかに経済発展が著しいシナといえども、容易に手に入る技術ではないと思う。だから当分の間、この空母は張子の虎であり続ける。つまり、シナ海軍はアメリカ海軍と対峙することはない。
しかし、海洋覇権はシナの国益にかかる重要課題である。それゆえに、何十年かかっても諦めることはない。現在のシナ海軍の実力はたいしたことはない。現在の日本海軍(海上自衛隊)でも技術的には対応できる。もちろんアメリカの支援あってではある。
最大の問題は、むしろ日本国内の国防に関する法整備と運用といったソフト面にこそある。
安倍内閣は、選挙前の大言壮語は封印して、現在は経済再建に傾倒している。これは政治的には正しい選択だと思う。これこそ有権者の大半が望んでいたことだからだ。しかし、有事法制の整備を忘れないで欲しい。
おそらくシナは小競り合い程度の戦闘は仕掛けてくる可能性は高い。過去の旧ソ連やインドとの国境紛争からして、その程度の事態はあってしかるべきと想定すべきなのだ。
その際日本は、ハード面では十分対抗できる兵力を有しながら、それを運用するソフト面での不備から戦えない可能性が高い。大切なものを守るために闘う覚悟なくして、平和は守れない。
来たるべき21世紀の新・日中紛争でその覚悟が問われると思う。