日差しが強ければ強いほど、日陰は濃くなる。
不思議なもので、眩しいほどに強い日差しの下に立っている時は、日陰をありがたいものだと思う。でも、日陰から出れない立場になると、日陰は重く苦しいばかりで、明るい日向を羨望の眼差しで睨みつけるのが精一杯だった。
この本が書かれたのは、丁度バブル景気の最盛期から崩壊に向けての時期だ。私にとっては、長く続いた難病の自宅療養期にあたる。家にこもりがちの生活であったが、週に1日か2日ぐらいは外出するように努めていた。
病人みたいな白っぽい肌が嫌で、少しも日焼けした自分で居たかったからだ。病人である癖に、周囲から病人だとみられることが嫌だったからでもある。
だから天気のイイ日は、なるべく散歩をするように努めていた。日差しを浴びるのは気持ちいいはずだ。でも、あの頃は、いささか苦痛であった。外に出れば、自分よりはるかに日焼けした同世代の若者たちの姿が、否が応でも目に入る。
羨望と嫉妬、そして言い知れぬ絶望感がお腹の中に冷たい塊となって澱むのを実感していた。それでも歩かねばならぬ、歩いて体力をつけねば社会復帰は遠のくばかりだと分かっていた。
だから、若い人たちが多く出歩くような場所は避けて散歩するようになっていた。そうなると、必然的に高齢者が多い場所か、家族連れが多い場所となる。お年寄りがベンチで休み、芝生にシートを広げた家族連れが寛ぐような場所、すなわち公園を散歩することが増えた。
そんな和やかな光景のなかに外国人の姿をしばしば散見することに気が付いた。思わず条件反射的に緊張するのは、幼少時の経験からだ。私が幼少時を過ごした町は米軍基地の隣町であり、外国人の姿は珍しいものではなかった。
ただ、あの頃はヴェトナム戦争の真っ盛りであり、安全な日本に休暇で訪れるアメリカ兵が少なくなかった。彼らは危険な存在であることは、私らガキンチョどもには常識であった。
機嫌がいい時は、チョコレートやガムをくれることもあったが、酔っぱらって機嫌が悪い時はビール瓶を投げつけてきたりすることもあり、子供にさえ危ない存在であった。それは大人ばかりでなく、日本の米軍基地に駐在しているアメリカ兵の家族、そのなかの同世代の子供たちも同様であった。
当時、私の住んでいた家は米軍の払い下げ住宅であり、近所にはアメリカ兵の住む家が数軒残っていた。大人は問題ないが、困るのは子供どもであった。道で通るすがるだけでも、緊張感が走ったものだ。
あの頃、アメリカ人は潜在的に日本を見下していたのだろうが、それはアメリカ人の子供たちにも伝播しており、奴らは平然と日本の子供を侮辱し、面白半分に喧嘩を売ってきた。
不愉快だったのは、奴らは自分たちが勝つものと決め込んでいた節があることで、無邪気に傲慢であることが如何に不愉快なものであることかの自覚などまるでなかった。
でも私らは気が付いていた。奴らアメ公のガキどもは、自分たちより小さい、すなわち勝てそうな相手にだけ偉ぶることを。必然的に少し小柄な私なんぞは、よく奴らに目を付けられた。しかも、斜め向かいに住んでいた奴らなので、けっこう頻繁に出くわしていた。
不思議と、あるいは当然かもしれないが妹たちには手を出してこなかったのは、奴らなりの矜持だったのかもしれない。まァ、思春期を迎えたらどうだったかは分からないが、お互い幼稚園から小学校低学年程度なので、喧嘩といっても取っ組み合うだけだ。
幸い、私が小学校に入学することには、親の異動に伴って白人のガキどもも姿を消していたので、近所は平穏となった。でも、隣の立川へ行くときは、やっぱりくそ生意気なアメ公のガキどもには注意が必要だった。
あれから20年近くたっていても、私は白人の姿を見ると、条件反射で緊張し、警戒する。まして病み衰えた今の自分では喧嘩に勝ち目はない。走って逃げるのさえ難しいだろう。
ところがだ、私の緊張がまるで無関係に、長閑で和やかな風景の中に外国人の姿は溶け込んでいた。よくよく見ると、隣の日本人家族とも和やかに談笑している。あれ、ビールを飲み交わしているぞ。食べているのは焼鳥ではないか。ありゃりゃ、お寿司まであるぞ。あいつら生魚食えるのか?
驚いたことに、白人の夫婦はカラフルなタッパーに刺身まで詰めて、わさび醤油で器用に箸を使って食べていた。私は白人が生魚を食べるのをはじめて見た。もっと驚いたのは、隣の日本人家族と日本語で会話をしていたことだ。
あのアメ公、日本語が喋れるのか!
私がそれまで白人の口(子供限定だが)から聞いた日本語といえば「バカ、シネ、クソヤロウ・・・」といった罵詈雑言ばかりであったので、本当に驚いた。時代は変わったのだなァと痛感したものだ。
かつて占領軍として日本を闊歩した米兵たちの姿は減り、替わって日本の社会に染まり、馴染み、共棲しているアメリカ人が飛躍的に増えていた。そんな一人が表題の本の著者であるホワイティング氏なのだろう。
彼のように、日本社会で働き、生活し、馴染んでしまった外国人は本当に増えた。現在は欧米系だけでなく、アジア系、アフリカ系も入り混じり、同一民族の均質社会であった日本に、不思議なアクセントを加える存在となっているのだ。
私は公園でシートを広げて寛ぐ白人家族を見ながら、自分が社会の流れの外に残置されていることを痛感せざるを得なかった。早く社会復帰したい、病気を治して働きたい。悲しいほどに、切ないほどに願いは募る。
ベンチから立ち上がり、再び散歩を続ける。少しでも体力をつけ、いつか来るはずの社会復帰の日を信じて。
ちょっと面倒臭さいが、3月に財務省が発表した平成25年度の税制改正の際の資料の一つが以下の表である。流し読み程度に、眺めて欲しい。あるいは太字の部分だけでも結構です。
平成25年度税制改正の大綱(5/5)
(参考1)平成25年度の税制改正(内国税関係)による増減収見込額(単位:億円)
1.個人所得課税
(1) 所得税の最高税率の見直し 590
(2) 少額上場株式等に係る配当所得等の非課税措置の拡充※ ▲ 60
(3) 住宅税制
住宅ローン減税の拡充 ▲ 570
認定長期優良住宅の新築等をした場合の所得税額の特別控除の拡充 ▲ 150
小計 ▲ 720
(4) 社会保険診療報酬の所得計算の特例の見直し 10
個人所得課税計 ▲ 180
2.資産課税
(1) 相続税・贈与税
相続税の基礎控除の見直し 2,570
相続税の税率構造の見直し 210
小規模宅地等についての相続税の課税価格の計算の特例の見直し▲ 130
未成年者控除及び障害者控除の引上げ ▲ 30
贈与税の税率構造の緩和 ▲ 10
相続時精算課税制度の適用要件の見直し ▲ 110
事業承継税制の見直し ▲ 80
小計 2,420
(2) その他
不動産の譲渡に関する契約書等に係る印紙税の税率の特例の拡充 ▲ 200
金銭又は有価証券の受取書に係る印紙税の免税点引上げ ▲ 160
電子申請による登記に係る登録免許税の特例の見直し 40
小計 ▲ 320
資産課税計 2,100
3.法人課税
(1) 国内設備投資を促進するための税制措置の創設※ ▲ 1,050
(2) 企業による雇用・労働分配(給与等支給)を拡大するための税制措置の創設※
▲ 1,050
(3) 商業・サービス業及び農林水産業を営む中小企業等の支援税制の創設※
▲ 190
(4) 研究開発税制の拡充※ ▲ 580
(5) 環境関連投資促進税制の拡充※ ▲ 20
(6) 雇用促進税制の拡充※ ▲ 30
(7)交際費等の損金不算入制度の見直し※ ▲ 350
(8) 保険会社等の異常危険準備金制度の特例積立率の見直し ▲ 20
(9) トン数標準税制の拡充 ▲ 30
法人課税計 ▲ 3,320
4.納税環境整備
延滞税等の見直し ▲ 120
合計 ▲ 1,520
(備考)1.上場株式等に係る配当等の7%軽減税率の適用期限(平成25年12月31日)が到来した後の本則税率(15%)適用に伴う増収見込額(平年度)は1,710億円である。
2.住宅ローン減税の拡充による平年度減収見込額は、平成26年から平成29年までの居住分について改正後の制度を適用した場合の減収見込額の平均と、改正前の制度(平成25年中に居住の用に供する場合に適用される制度)を適用した場合の減収見込額との差額を計上している。
3.※は「日本経済再生に向けた緊急経済対策」に係る項目であり、減収見込額は、平年度▲3,330億円、初年度▲2,370億円である。
多少、端折ってはいるが、これが財務省が考える平成25年度の改正による税収見通しだそうだ。この表によると最終的には日本政府は 1520億円の減収となる。すなわち減税であるそうだ。
嘘を書いている訳ではないけど、この見通しを真に受けてはいけません。まず、個人の税金すなわち所得税については、最高税率が上がる増税以外は概ね減税である。これはその通りだと思う。
また、2の資産税(相続税、贈与税)については、減税措置は盛り込んであるものの、むしろ増税である。これもその通りだと思う。
問題は、3の法人税なのだ。財務省の見通しだと 3320億円の減収すなわち減税だという。ここに問題がある。実は法人税の減税措置は、企業が設備投資や雇用拡大、研究開発の拡充などをした場合に適用されるもの。すなわち企業が設備投資を控え、雇用は現状維持、研究開発も現状維持ならば当然減税はなく、従前の税収が確保される。
一方、1の所得税の減税と、2の資産税の増税は強制適用。つまり、仮に企業がなにもしないと、2240億円の増収すなわち増税となる。これが平成25年税制改正の正体なのだ。
なお、財務省の作った表には記載されていないが、国民年金などの社会保険は当然、毎年増える一方なので、全体としてみれば今年も増税は続く。しかも円安による輸入価格の上昇による値上げは必然。
つまるところ、景気が良くなり企業が積極的に設備投資をし、雇用を拡大しないと国民生活は逼迫するばかり。これが財務省が打ち出した財政政策である。私にはこれが景気拡大のための改正とは思えない。
もちろん部分的には景気対策的な改正もある。あるけど、全体を俯瞰すれば、やはり景気対策ではなく国家歳入確保が第一の改正だと思いますね。まァ、財務省の仕事はまず第一に国家歳入の確保なんでしょうけどね。それだけに、如何に財務省主導の税制改正であったから良く分かる。アベノミックスなんて、小っちゃく言い訳みたいにあるだけです。。
余談ですが、新聞やTVはこのことを適切に報道しているのでしょうかね。どうも枝葉末節的な報道に終始している感が堪えませんが。要するに木を見て森を見ず、ですね。
それはさておき、かねてより懸念していた相続税の大衆課税が大きく推進したことは特記すべきでしょう。つまりこれまで相続は心配しても、相続税の納付を心配することはなかった人たちへの課税拡大です。
ただし、今回の相続税増税には飴と鞭の両方がある。これについては、又日を改めて書き記したいと思います。
現在の地球において、一番繁栄を誇っているのが人類であることは間違いない。
生息領域は熱帯から寒冷帯にまで及び、化石燃料によるエネルギー利用により巨大な文明を築いている。あまりの繁栄ぶりに増長し、他の生物を絶滅に追いやる有様であるのはご承知のとおり。
ところが人類は個体としてみると、むしろ弱者に近い。鋭い牙もなければ、切り裂く爪も持ち得ない。固い皮膚がある訳でなく、さりとて巨体であるわけでもない。人間の歯の構成をみれば分かるように、本来は雑食性であり、断じて肉食性の哺乳類ではない。むしろ肉食性の哺乳類にはない臼歯などをみれば、草食性哺乳類の歯に近い。
にもかかわらず、人類が地球において繁栄を可能にしたのは、道具を使った集団戦闘が出来る唯一の生物だからだ。道具を使う生物は少数だが存在する。しかし、戦闘に道具を駆使するのは人間だけだ。
敢えて断言させてもらえば、人類は武器あってこそ繁栄できた。もちろん武器を作り出し、活用することを可能にした高度な知能あってこそだ。更に付け加えるならば、高度な知性は言語による情報伝達による集団戦闘の高機能化だけでなく、武器の使用を世代間にわたり伝えることを可能にした。
武器という道具を駆使しての集団戦闘が出来るからこそ、人類は地球で勝利者の地位を勝ち取った。そして、武器の発達は人類の歴史そのものである。
例えば車輪の存在がそれだ。この車輪という道具を、いったい何時誰が発明したのかは不明だ。分かっているのは紀元前2千年頃に中央アジア近辺で道具の運搬に車輪が用いられて形跡があることだ。そして、この車輪をつけた箱を馬に曳かせて戦車として活用したのが、オリエントの覇者であるシュメールだ。
車輪だけではない。青銅器や鉄器は農具にも用いられたが、なにより武器として研究、開発された成果でもある。人類は数多くの発明をなして、それを道具として文明の発達に活用してきた。しかし、なによりも道具の発達を戦争に利用することで繁栄してきた。
火力を動力源として活用することに代表される産業革命は、その典型例として明記されるべきだ。何故なら、産業革命により銃器、火砲が大量に安く生産できるようになったからだ。この破壊力が飛躍的に増大した武器をもって西欧は世界の大半を勢力下においた歴史的事実は、何故か日本の歴史教科書では無視されている。
極論かもしれないが、この銃器の大量生産がなければ民主主義が広まることはなかったろう。何故ならフランス革命とその後の革命戦争において、本来支配者階級(王や貴族)だけが保有できた銃器が、市民たちの手に渡っていたからこそ、市民の武力による権力奪取が可能になったからだ。
民主主義の確立には、多くの市民たちが手に取った銃器の存在が大きく貢献している。有名なドラクロワの絵をよく見て欲しい。自由の女神に率いられた市民兵たちの足元には、戦いの最中に唐黷ス多くの人々の死骸が横たわり、それを踏み越えてこそ民主主義は確立されたのだ。
自由の女神は流血を欲す、とまでは云わないが、それでも断言しよう。今、我々が享受している平和と民主主義は、戦争により得られたものだと。
私は話し合いによる和解とか、法治による平和、あるいは愛情と信頼に基づく安定といったものを否定しているのではない。これはこれで大切なものだ。しかし、人類を平和と安定に導いてきたのは、戦いの結果であるのは否定してはいけない事実だ。
ところが、戦後の日本には歴史の事実に目を背けて、憲法9条という空想に囚われた平和盲信者が跋扈している。シナやコリアのように日本を貶めておきたい輩はともかく、大半の憲法9条信者は善良なる大人しい一般人だ。
良き隣人、良き市民たらんと務めている真面目な人ばかりであることは私も認める。しかし、人間と歴史に対する考察が甘い。人間が今日の繁栄を享受できたのは、人が平和を愛するからでもなければ、戦争を否定してきたからでもない。
人と云う生き物は、道具を使った戦闘を集団で行う技術に長けた、すなわち戦争に勝ち抜いてきた結果、今日の繁栄を勝ち取った。つまるところ、人類の歴史とは、戦いに勝ち抜いた積み重ねでもある。
ジャレド・ダイヤモンドのこの著作が優れているのは、人種的優位性とか、宗教的使命といった概念から離れて、人間の行為について論証的に、かつ具体的に解明しながら、人間社会の姿を多面的に捉え、それを総合して著した点にある。
なぜ西欧は産業革命を起こせたのか、なぜ今も原始的生活に安住する人たちがいるのか、そして何故、西欧は世界の大半を支配下におけたのか。それを科学、宗教、技術、農業、生物学、医学及び疫病学そして戦争といった多方面にわたり考察を重ねた成果がこの本なのだ。
勘違いされても困るが、ダイヤモンド氏は別に戦争賛美者ではない。医学、生物学にとどまらず、インドネシアの熱帯雨林にフィールドワークとして長期滞在するなど、理論と実践、考察と実地体験などを元にして従来にはない画期的な人類史を書き上げた先駆者である。
どうか勇気をもって人類のこれまでの実績すなわち歴史を、論理的に科学的に直視して欲しい。そうすれば見えてくるはずだ。人類という生き物は、戦争と共に歴史を積み重ねてきたという醜悪ににして逞しい真実が。
私は戦争を美化するつもりはない。しかし、戦争を人類に不可避、不可分の現象として理解し、少しでも平和な毎日が続くよう願っている。そのためにも戦争を理解し、可能な限り戦争をしないで生きていけたらと考えている。
だからこそ、歴史を学び、事実を知って、それを未来に活かすべきだと思う。平和は願って叶えるものではなく、平時の地味で絶え間ない努力(諜報、外交、威嚇、妥協、協調)の積み重ねで勝ち取るものだ。
この本は、そのための一助となりうる知識を提供してくれると思うので、是非ともご一読願いたいと思います。
未だに理解しがたい。
なにがって応援団である。私は登山という特殊な分野ではあるが、高校大学と7年余り運動部で過ごしてきた。しかし、当時から同じ運動部系の部活とは認めがたかったのが、いわゆる応援団という奴であった。
いや、認めがたいというより嫌悪感の方が強かった。なんで、そんなにエバっていやがるのか?
同じ学校の仲間たちが試合をするのを組織だって応援するのは分かる。でも、その応援するほうが高飛車にふんぞり返る姿が嫌いだった。私は登山が他者と争う競技ではないため、応援団から応援された覚えはないが、それでもそこはかとなく疑問に思っていた。
あんなむさ苦しい奴らに応援されて、競技者は力が出るのか?
こればっかりは分からない。サッカーなどを見ていると、サメ[ターと称される応援者の声援が、選手に力を与えているのは確かなようだ。だから一概に否定はしない。でも黒い詰襟の学ラン来た男たちの怒鳴り声で応援されても、選手って嬉しいのか?私には理解できん。
実は私が反感を抱くもう一つの理由がある。私が高校卒業までを過ごした三軒茶屋という街には、大学が3校あった。あの時代は学生運動が盛んであり、三茶界隈の安いアパートには、学生運動家が数多く住んでいた。
私は小学生の頃から、キリスト教の団体を通じて、彼ら学生運動家との付き合いがあったので、心情的には彼ら寄りの立場であった。だからこそ、大学応援団の奴らが嫌いであった。
60年安保での左派学生運動の盛り上りは、自民党政治家には大いに脅威であった。それゆえ彼らは右翼の大物フィクサーであった児玉を通じてヤクザを集めて、左派運動家に対する威嚇をするようになった。
もっともヤクザの本音は関西の山口組への対抗手段としてであったが、左派運動家潰しにも活用されていたことは周知の事実であった。ただ、如何にヤクザと云えども大学内の学生運動家には手を出しずらかった。そこで活用されたのが、大学内の応援団であったようだ。
当時、大学の応援団といえば大学当局側の用心棒あるいは飼い犬呼ばわりされる嫌われ者であった。私がよく世話になった大学生のお兄さんたちは、応援団の連中を蛇蝎のように嫌っていた。無理もないと思う。
あの頃、三茶の裏通りの安酒場に行けば学生同士の喧嘩が絶えなかった。左派学生の理論闘争といえば聞こえは良いが、実際は酔っ払いのふざけ合いのようなチャチな喧嘩であった。しかし、そこに応援団の連中が絡むと途端に壮絶な苛めとなる。
どうゆうわけか、あの頃の応援団には暴力的な雰囲気が漂う若者が多く、喧嘩馴れした輩が多かった。後に知ったのだが、柔道や剣道など武道系クラブとの掛け持ち団員や、応援もあったようだ。
云っちゃなんだが、学生運動家なんて知識過剰で運動不足のガリ勉が多かった。いくらヘルメットを被り、ゲバ棒を持って構えていようが、喧嘩馴れした応援団の荒くれ者には勝てなかった。
私の目には喧嘩というよりもイジメに近かった。ただ、大怪我をする者がいなかったのは、応援団の連中が喧嘩慣れ、場馴れしていたからだと思う。後年、学生運動家たちの間で起こった内ゲバのほうが、陰惨というか苛烈であったのは彼らが喧嘩慣れしていないが故に、手加減が下手くそだったのではないかと思っている。
路上で顔面血まみれ、涙と鼻水まみれの知人の学生運動家を見つけると、私は律儀に教会のシスターたちを呼びに行って連れてきたものだ。彼女らに介抱される学生運動家たちを見るたび、こんなに弱いものイジメをしなくてもいいのになと、幼いながらも憤慨していた。
そのせいで、大学に入っても応援団に対しては、どうも好意的には思えず、距離をとっていた。実際のところ、私の母校はお坊ちゃんお嬢ちゃんの通う上品な大学であったので、応援団も暴力的でなく、むしろ古風でさえあった。率直にって大学内では浮いていたように思う。
そんな時代に一世を風靡したのが表題の漫画であった。南河内大学という架空の大学の応援団を舞台に繰り広げられる団長・青田赤道のハチャメチャな活躍に腹を抱えて笑ったもんだ。
「ちょんわ、ちょんわ」と奇声を発しながら下級生をシゴキ、「くうぇ、くうぇっ」と叫びながら女の子の尻を追いかけ、あげくにヤクザやチンピラ相手に喧嘩を繰り広げる青田赤道の奇想天外なキャラは、応援団嫌いの私でも笑わざるを得ない。
笑いながらも、こんな応援団ありえねぇ~と思いつつ、これに近いのならあるかもしれないと想像してしまったのは、やはり十代前半の頃に見かけた応援団たちの記憶があったからでした。
先週末だが、国際的ハッカー集団として知られるアノニマスが北朝鮮のコンピューターへ侵入して、その情報工作員の名簿を持ち出して公開した。
その名簿の中には、我が国の公共放送であるNHKの職員の氏名が記載されていた。これは日本の報道が、特定の国家による干渉を受けていた可能性を提示しており、決して無視していい情報ではない。
私の考えでは、どこに落ちるか分からないミサイルよりも、よっぽど重要なニュースだと思う。もっといえば、やる訳がないと国際社会が冷笑しているアメリカや日本への攻撃よりも遥かに重要なニュースだとさえ思う。
ところがだ、我が国のマスコミ様はこのニュースを報道することを避けている。産経新聞でさえ片隅に小さく記載している程度だ。なにより当のNHKは完全に無視している。
もちろんアノニマスが公表した名簿の信ぴょう性を疑う意見があってもいいし、情報操作、情報工作の可能性だって疑ってもいい。この名簿により北朝鮮の情報工作員だとされた人が、実は無関係で、むしろ意図的に追いやるためにわざと記載されていた可能性だってあるだろう。
しかし、完全に無視するのはおかしいと思う。氏名まで公表されたNHKの職員が、もし無関係であったらどうするのか。その可能性だってゼロではない(まァ、私は情報工作員の可能性が高いと思いますが)だけに、少なくてもNHKだけは公式に対応するべきだ。
一応、確認しておくが、NHKは視聴者である日本国民からの受信料で運営されている公共放送である。その職員が北朝鮮の情報工作にかかわっていた可能性を窺わせるニュースだけに、NHKは自らの正しさを証明せねばならぬ。
他の新聞、TVが信ぴょう性を疑って報道しない(?)のも、如何なものかと思うが、最低限NHKには受信料を支払っている日本国民に説明する義務があると思う。
余談だが、北朝鮮や韓国、共産シナが日本に情報工作員(スパイ)を送り込むのは当然だ。自国を守るためには、相手国に不利に、自国には有利になるよう情報操作を目論むのは当然の政治的行動である。
本来ならば、日本だって率先してやらねばならぬ。それが平和を守るための重要な手段であるからだ。憲法9条なんぞぶら下げたって、平和を守ることは出来ない。本当に平和を守りたいのなら、相手国に情報工作を仕鰍ッるのも立派な平和活動だ。
同じことを北朝鮮がやっていただけであり、本来秘密裏にやるべき情報工作が、アノニマスのハッキングにより暴露されただけのこと。
これが欧米で、TVや新聞にロシアの情報工作員が紛れ込んでいたと知られれば、当然にニュースになる。過去、実際に何度もあった。80年代初頭に与党第一党を伺う勢いだった「緑の党」なんかは、ロシアがスパイを送り込んでいたことが発覚した途端に失墜した。
また戦前にはアメリカのTIME誌には、シナ人を配偶者に持つ寄稿者が意図的に日本を卑劣で残虐な侵略者に仕立て上げた原稿を何度となく掲載して、アメリカが日本に敵対的になるよう工作していたことは周知の事実だ。
シナ人からすれば、侵略者である日本人を大陸から追い払うためには、アメリカを利用する情報工作は当然のものであった。そして情けないことに、当時の外務省には、これに対抗する情報工作は出来ず、無視するだけで何もしなかった。
なにもしてないから、失敗もしてない以上、人事考課にマイナスはない。これは今も昔も変わらぬ日本の官僚気質なのだろう。この気質はNHKにおいても根強く残っており、今回もNHK内には情報工作員などいるわけないと無視し続けるつもりらしい。
そして、談合体質が色濃く残る日本のマスコミ様は、NHKの不祥事を一致して無視する意向のようだ。これじゃァ、新聞が発行部数を減らし、TVが視聴者を減らすのも当然だと思う。
おそらく雑誌等には報道されると思うが、おそらく国会が事件として取り上げ、NHKを喚問するぐらいまでいかないと、事件はなかったことにされるでしょう。現時点ではなんとも言いかねますが、これが日本のマスコミの現実だと知っておいて欲しいものです。