解せない。
なにがって、軽自動車税の増税論議である。消費税増税に合わせて自動車取得税の廃止が決まっているらしい。自動車取得税は地方自治体にとって貴重な税収であり、それを補うために、軽自動車税を増税することが検討されているという。
私はこの報をのんびり朝食を食べながら、なんとはなしにTVで聞いたのだが、思わず吹き出しそうになった。
バカか、こいつら。
確かに自動車取得税の廃止は、地方自治体にとって大きな税収減であろう。でも忘れているのかもしれないが、消費税の増税は地方自治体にとって税収増となるはずだ。
現行の消費税は、正しくは消費税及び地方消費税といい、国税4%、地方税1%の合計5%で課税されている。それが8%になれば、国税6,4% 地方税1,6% となり、地方自治体のの税収は確実に増える。おそらく自動車取得税の税収よりも多いはずだ。
で、なんで増税するのさ。
おそらく背景にあるのはTPPというか、アメリカからの苦情であろう。つまり軽自動車が安いので、日本ではアメリカ車が売れないとの主張をしているらしい。
率直に言って、軽自動車税を普通自動車並みにしたところでアメリカ車が売れるとは思わない。日本で乗るにはでか過ぎるし、燃費も悪い。なにより日本の道路事情、住宅事情に合わない。
断っておくと、私はアメリカ車が嫌いではない。っつうか、子供の頃は憧れであったし、今だって馬鹿でかいエンジンを力強く吹かせて爆走してみたい。あの一見しただけでアメリカ車だと分かるデザインは迫力満点だし、あのデカイ車ならば人も犬も気軽に乗れるし、あれでアウトドアを楽しむ生活には、ちょっと憧れている。
でも、日本でアメ車は買わないし乗らない。だって不便だから。アメリカのメーカーが日本で売り上げを伸ばしたいなら、日本の事情に合わせた車を作れ。顧客が求めるものを売るのがビジネスの基本であり、押し売りは必ず失敗する。
その代り、日本の消費者が求める商品ならば、アメリカ製であろうとシナ製であろうと必ず売れる。アメリカ製のスニーカーやアウトドアグッズが如何に売れているのか、アメリカのTPP関係者はよく調べておくべきだ。
軽自動車税を上げたところでアメリカ車は売れません。
もっとも彼らは実際に売れるかどうかは、さして気にしていないらしい。要はTPPの交渉時において点を稼げば良い。ただ、それだけらしい。さすが弁護士主体の交渉団だ。日米貿易摩擦が激しかった30年前から、まるで進歩がない。
それはともかく、日本側もだらしない。というか、なんだってあんな間抜けな議論をしているのか。そんなに財務省や地方自治体に媚びを売りたいのか。それとも、あまりに忙しくて、政府からの広報資料しか読む暇ないのか。
私には増税ありきの情報工作にしか思えない番組でしたね。ちなみにTBSの朝の番組、ただしミノ氏は居ませんでしたがね。
多分、人間の肉って相当美味しいと思う。
ただし、その人間の食生活次第だと予想している。だいたい牛でも豚でも、美味しい肉は草食主体で、多少の雑食が望ましい。ダメなのは肉食主体の生き物だ。不思議なくらい肉食動物の肉は美味くない。
特に肉しか食べない動物の場合、その肉は美味しくない。ライオンやトラの肉なんて、臭みが強すぎて食べられたものではないらしい。ただし雑食なら良し。有名なのはクマで、それも冬眠直前の肥えた奴が美味いらしい。
私は未経験だが、このクマ肉の赤身は噛めば噛むほどに芳醇な肉汁にあふれ、しかもあっさりとした食べ口で最高級の牛肉に勝るとも云われる。もっともクマ肉自体、滅多に出回らないし、詳しい人の話では射殺した後の血抜きを上手にやらないと臭みが残るので、どのクマでも美味しいという訳でもないそうだ。
で、我らが人間様だが、こいつら究極の雑食性。というか、えげつないほどに何でも食う悪食でもある。しかも野生なら生きることを許されないほどの怠惰な生活も可能にする奇妙な生き物なので、その肉は個体差が大きいと予想される。
でも適度に運動をし、野菜など穀物を豊富に食し、時折肉や魚を食べる人の肉は、まず間違いなく美味いはずだ。時折インドやアフリカで聞く人食いライオンや、人食いトラなんざ、人肉を覚えると他の獲物には手を出さないという。こりゃ鉄板で美味い肉確定である。
それでも、多分私は人肉は食べないだろう。
多分・・・と曖昧な言い方をするのは確信がある訳ではなく、むしろ戸惑いと疑問があるからだ。なぜ、人は同じ人の肉を食べてはいけないのか。その根拠が分からない。
遭難しての危機的飢餓に襲われた極限状況なら分からないが、平時ならば目の前に如何に美味しげな料理の皿が出されても、それが人肉だと知れば食べるどころか吐くかもしれない。だが、知らなければ、美味しいと食べてしまうのではないかとの恐れが脳裏を離れない。
実際、シナでは古来より人肉料理はひそかに食べられてきたのは有名な話だ。かの地では人食は禁忌とされていないので、飢餓時は当然のこと。驚くべきことに、比較的最近まで人食いの話はあった。
これを単純に野蛮だと非難する気にはなれない。同族喰いが何故いけないのか、その根拠はそれほど明快ではないと思うからだ。
表題の漫画は、そう遠くない未来の東京で人類は、グール(喰種)と呼ばれる人食いの怪物との共存を止む無くされている。主人公の少年は普通の人間であったが、事故に遭い手術を受けて後、急に普通の食事が食べられなくなった。
手術前は美味しかった食事が、食べても気持ち悪くて吐き戻してしまう。彼の目には人間たちが美味しそうな肉をしていることを気が付かずにはいられなかった。どうやら手術の際、何らかの意図によりグールの細胞か何かを移植されたらしい。
半分は明らかに人間なのだが、残り半分は人食いであるグール(喰種)となってしまった主人公は、怒りと戸惑いと苦悩のなかで苦悶しつつも、新たなる人生を彷徨いだす。
普通の人間に、自分が半分はグールであることがばれたら無事ではいられない。一方、普段は人間同様の姿をしているグールたちから、自分が仲間だと認識されるかどうかさえ分からない。
人間を襲って食べたいと想いながらも、それをすれば人間ではいられないとの予感に怯える主人公。一方、そのグールを捕獲、抹殺することを特命とする特殊捜査官の捜査の手が近づいていることも予測できた。
どうしたらいいのか。何故自分はグールに仕立てられたのか。分からないことだらけのなか、主人公は必死で逃げ、生き延びることを覚悟する。
ちょっと気持ち悪いと思いつつも、毎週読んでしまう気になる漫画がこれです。浮ウよりも気持ち悪さが先立つ、困った漫画でもあるので、読者を選ぶ漫画でもあります。ちなみに気持ち悪さは、怪物であるグールではなく、それを追い詰める人間の側だから性質の悪い漫画ですよ、これ。
久々に気持ちのいい試合でしたね。
ここ数試合、勝てない試合が続いたザッケローニ・ジャパンですが、アウェイの地で強豪オランダと引き分け。親善試合であれど、アウェイの地での引き分けは、勝ちに等しい価値がある。
もちろん、ファン・ペルシーやカイト、スナイデル等を欠く一軍半のオランダではあったし、前半の多くはオランダに圧倒されていたのも事実。とりわけ日本のストロング・ポイントであるはずの左サイドの長友は、高速ドリブルのロッペンにやられっぱなし。右サイドの内田も単純なミスから失点を招くだらしなさ。
もし前半終了間際の大迫の追撃弾がなかったら、後半だって分からなかった。それでも間違いなく後半は日本が押していた。会場はオランダではなく、ベルギーのゲンク州だが、オランダから車で数十分であり事実上のホームだ。
でも勝つに決まっている日本戦に対するオランダ人の関心は薄く会場の一角で湧いていたのは、他ならぬアウェイの日本人サポーター一万人程度。だから厳密に云えば日本にとってアウェイとは言い難い。それでも遠くヨーロッパの地での試合であることに変わりはない。
その地で二点を先制されながら、日本が追い付くなんて試合は、私は初めて観た。なかでも二点目は見事な得点であった。中短距離の素早いパス交換でオランダの守備を崩し、ノートラップでの大迫のポストプレーを本田がゴール隅に叩きこむ。
日本人の俊敏さを活かした理想的なプレーであると同時に、ここしばらく影を潜めていた連動性を活かしたプレーでもあり、辛口評論でなるセルジオ越後でさえ「見事な得点シーン」だと認めざるを得ない。
この二試合の完封負けから、批難の矢面に立たされたザッケローニ監督の采配も見事であった。ほぼ不動のレギュラーといえる遠藤と川島を敢えて先発から外して、清武と山口、そして西川にチャンスを与えた。そして後半に遠藤と香川を投入して、その采配が的中した。
オランダのファン・ハール監督に「後半に入ってきた二人にやられた」と言わしめた采配だけに、ザッケローニ更迭論を見事に撥ね退けたと云ってイイと思う。
この試合で特に目を付いたのは、先制しアシストまでやってのけた大迫であり、もう一人は日本代表の激戦区の中盤に新たに名乗りを上げた山口であろう。遠藤、長谷部、細貝に対して見事に挑戦状を叩きつけたプレーは爽快であった。
ワールドカップ出場決定以降、ワントップを志向してきた日本代表にとって、期待の星であった柿谷よりも先に実績を挙げた大迫の登場は、柿谷のみならずハーフナーや前田、岡崎らFW陣の競争心を掻き立てる最高の贈り物ともいえる。
ここしばらく、日本代表の試合は少々観るのが辛かったが、久々に楽しいといえる試合でした。来年はいよいよ本番、今は勝とうと負けようと、ブラジルでの本戦に向けての準備と割り切っていましたが、やはり日本が勝つ試合を観たいのは本音です。
あァ、楽しかった。
追記 今朝のニュースでベルギーに3―2で勝ったとのこと。早朝の試合だったので冬眠を優先して観ませんでしたが、良かった良かった。
日頃、あまりTVを見ないと広言しているが、時々観てしまう番組もある。
その一つが朝は8時半からTBS系で放送していた「はなまる」である。大体、観るのは病院での待合室だ。今から10年以上前は、毎月病院に通っており、その待合室でついつい観ていたのが「はなまる」であった。
司会を務める岡江久美子はともかく、たしかジャニーズ系の3人組グループの一人であった薬丸氏であったことが目を引いたのは確かだ。妙な組み合わせだなと思ったが、それほど違和感はなく、待合室で順番を待ちながら時間を潰すのには悪くなかった。
私が関心を持って観ていたのは、もっぱら料理特集であった。当時から朝は自炊であったし、母が外出している時は夕食も自分で作っていた。だから、この番組で分かり易く解説してくれる美味しそうな料理は、しばしば自分で作ったりもしていた。
もっとも病院通いが二か月に一回となり、事務所を引き継いでからは多忙に過ぎて番組を観る機会が激減していた。たまに見ると、昔ほど料理の特集は減っていたように思えた。いや、むしろ他の番組で似たような企画がかなり出ていたので、新味が薄れたというべきか。
だから先だって番組終了の報が出た時も、それほど違和感はなかった。でも、少し寂しさはある。
あの頃はまだインターネットは始めてなくて、もっぱらメモ帳に殴り書きでレシピを書き写していた。多少、写し損ねたこともあったが、そこは工夫していろいろと料理のレパートリーを増やしたものだ。
もう当時のレシピを作ることは稀だが、それは忙しくて下準備をしていられないからだ。時間が十分あれば、再び作ってみたいレシピは幾つもある。病院通いが減ってからは、インターネットに番組の情報や紹介されたレシピが載るので便利になったが、不思議と一度も使ったことはない。
あの殴り書きの手書きのレシピのほうが、なぜか創作意欲を掻き立ててくれる。ネットで見たレシピは、どうも作る意欲に欠けてしまう。必然的に「はなまる」も見なくなっていた。
実はこの番組、あのミノモンタの朝の番組の次に放送されていた。ミノ氏が息子の不祥事とその後の放言から嫌われて、朝の報道番組自体が改編されるそうだが、それに機を合わせて「はなまる」も終わるらしい。
案外、はなまる関係者はミノ氏のとばっちりと思っているかもしれないが、私からするともう番組に魅力がなくなりつつあった現状をようやく追認したに過ぎないと思う。
あまりTVを見ない私が、朝の時間帯によく見ていた(あるいは聞いていた)番組が、TV朝日の「やじうま」とTBSの「はなまる」であった。前者はもう見なくなって久しい。そして「はなまる」も終わる。
そろそろラジオに切り替えようかな。別にTVでなくても情報は得られるしね。まァ、唯一天気予報というか、天気図だけはTVで観たいけど、それもネットで見れる時代だ。
もうTVはなくてもいいかもしれない。でも、ないと寂しいようにも思う。まァ、無理に捨てるのも何なので、このまま期限が切れるまで使うかな。いや、実は地デジに対応してない旧式のTVで、ケーブルTV会社がアナログ転換してくれるサービスがあり、そのため今も見れるだけ。
再来年のその期限が切れる時、TVをどうするか考えようと思います。
独断と偏見を承知で言わせてもらうと、会社は株主だけのものではない。
暴論なのは分かっている。会社は株主が資本(お金)を出資して作られる。いわば株主は会社の産みの親である。
親は産んでくれただけでなく、会社が大きくなるための追加の出資にも応じてくれる。株主なくして、会社は存在し得なかった。これは事実であり、それを否定する気はない。
だが、産まれ出でた会社を育てたのは、社長であり従業員である。その会社に資材を提供してくれた仕入れ先あっての会社であり、その会社の提供する商品(サービス)を買ってくれた得意先あっての会社でもある。
更に付け加えるなら、地域との結びつきも無視でき得ない大事な要素だ。元気な会社は、その地域を元気にさせるからこそ地元は応援する。会社を産んだのは株主かもしれないが、会社を育てたのは社長や従業員、取引先、そして地元でもある。決して株主だけで会社は育たない。
それでも産んだのが株主である以上、親として尊重されるのは当然だ。ただ、ここで近代市場社会は、新たな側面を見せる。この株主の立場は、それ自体が売り買いできる商品であり、会社の創建とは無関係な人であっても、その会社の株主になれる。
喩えは悪いが、親が子を売り払ったようなものだ。これは合法であり、違法でもなんでもない商取引に過ぎない。だが、売られた子(会社)からすると、株を新たに買い受けた株主を、自らの産みの親だと見做すことは難しい。
そこには親子の間の曖昧な優しさはなく、あるのは株主と経営者との間の緊張感であり、その厳しさが経営にプラスに働くはずであった。これを所有と経営の分離という。決して悪いことではない。
だが、株主がいかに真なる所有権を叫ぼうと、その会社で実際に働く人々の心には届かないことは少なくない。創業株主ならいざ知らず、経営者や従業員の知らぬ間に売り買いされて現れた新たな株主には、なんの情も感じないのが普通だ。
人は理屈だけでは動かない。この当たり前の道理が理解できぬ、頭がイイだけの新たなる株主があまりに多い。だからこそ、ホリエモンや三木谷はM&A(買収、合併)に苦労した。もちろん成功例もあるが、失敗したことも少なくない。
ホリエモンに至っては、あまりにマネーゲームに傾倒するあまり証券取引法違反を犯して収監される有様である。かつて一世を風靡した村上ファンドも既に過去の遺物である。
しかし、だからといって買収や合併がダメだという訳ではない。この本を読むまで私も失念していたが、かつての日本は買収や合併は日常茶飯事であった。とりわけ明治末から昭和初期にかけて、鉄道、電気、電話など社会インフラを支える業種では、合併買収が盛んに行われて今の大企業が存在する。
今日においても、買収や合併は重要な経営手法の一つであることに変わりはなく、今後も盛んに行われるであろう。
では、買収や合併が上手くいくためには、どうしたら良いか。著者の言うとおり、失敗例から学び、成功例を模倣すること、すなわち基本を重視することだと思う。会社の所有権は確かに株主にある。
しかし、その会社は経営者のみならず従業員、取引先、地域社会など多様な関係者が協力することで動いている。単に株券を動かしただけでは、経営は出来ない。M&Aに拒否感を持つ人は少なくないが、そのような人ほど読んで欲しい本だと思います。