ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

アギーレ代表監督の解任

2015-02-05 12:27:00 | スポーツ

逃した魚は大きかったと後悔しなければいいが。

日本サッカー協会は、アギーレ代表監督の解任を発表した。スペインリーグのサラゴサ監督時代の八百長疑惑と、その後の裁判の影響を考慮しての苦渋の選択ではあるようだ。

だが、背後にあるのはその問題ではないはずだ。これは日本サッカー協会の次期会長人事を巡る暗闘の幕開けだと私は考えている。日本サッカー協会は、現在は世界屈指の金満団体である。

豊富なスポンサーと、潤沢な放送権料収入、著作権収入など経済的に非常に恵まれている。当然ながら役員クラスとなれば、相当な年棒が支給されている。この役員人事は、長年にわたり大学サッカー派閥と、社会人リーグの企業閥により支配されてきた。

ちなみに現・大仁会長は慶應、三菱重工という伝統的派閥に属する。前会長の長沼氏は古河電工であり、前々会長の小倉氏は三菱重工である。要するにたすきがけ人事なのだが、任期が一期で終わった人もあり、解任騒ぎありの実に胡散臭い組織である。

この会長人事、役員人事こそがアギーレ監督解任騒動の根っこにあるのだが、それを報じるマスコミは少ない。これは大手マスコミのスポーツ担当記者が、大学クラブのOBが多く、いわば身内の恥的な報道を避けることが大きい。

アギーレの八百長問題は、大仁会長らの足を引っ張る絶好の材料であった。これが今の、日本サッカー協会の実態であり、現状である。いったい、誰のためのサッカー協会だと思っているか。どうも、サッカー部OBの再就職先だと思っている節がある。

そもそもアギーレ監督を選んだ時の条件は、代表監督としてワールドカップで実績がある人であった。これは代表監督としては十分な実績を示したザッケローニが、ワールドカップでの監督経験がないことからの反省でもあった。

実際、短期間ではあるがアギーレ監督の下で日本代表のサッカーは、そう悪いものではなかった。当初はバタバタしていたが、守備はしっかりしてきたし、選手からも評判は良かったようだ。

ただ、八百長騒ぎにかこつけて、選手の間に不信感が広まっているなどとヨタ記事を書く御用マスコミがあった。また、若手の登用が少ないとの非難があったのも事実だ。

しかし、今の若手の体たらくをみていれば、登用したくても出来ないアギーレの判断は当然にも思う。また、ベスト8で終わったアジア杯だって、堅い守備は十分評価に値するものであったと私は考えている。

それは大仁会長も同様に思っていたようで、当初はアギーレ続投だと明言していた。しかし、協会内部での突き上げは相当にきつかったようで、それが今回の解任発表に繋がったようだ。

それにしたって解任の時期が悪い。この時期にフリーでいる名監督なんて、そうそういない。馬鹿なマスコミが、やれ日本人監督だとか、ピクシーだとか騒いでいるが、当初のワールドカップでの実績ある監督といった基準はどうなった?

サッカー協会の目的を忘れた醜態も見苦しいが、マスコミの定見なき軽薄きわまる報道にも呆れてものがいない。こりゃ、低迷するかもしれないぞ、日本サッカーは。

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戦いに終わりなし 最新アジアビジネス熱風録 江上剛

2015-02-04 12:08:00 | 

最近の小学校では、一学年2クラスあればいいほうで、1クラスを編成するのがやっとの学校も少なくない。

言うまでもなく少子化の結果である。この問題の解決は難しい。少子化が問題として認識されだしたのは、主にヨーロッパにおいてだが、確固たる原因は判明していない。だが、解決策がない訳ではないのは、フランスなどの成功例からも読み取れる。

ただ、少子化というが、実は二極化ではないかと思っている。私の周囲をみると、若くして結婚した連中は子だくさんが少なくない。一方、30代以降に結婚した連中はよくて一人、むしろ子供がいない家庭が多い。

別の面から見ると、若くして結婚した連中は失礼ながら高学歴とは少し遠い。もちろん大卒もいるが、いわゆる超一流ではない。一応言っておくが、学歴だけの話であり、人間的な魅力は別物である。一緒に遊ぶなら、実に楽しい連中なのだ。ただ、少しヤンキー率高い。

一方、高学歴で晩婚の連中は、ある意味子作りに励む時間的余裕がない奴らが多い。仕事でも中核的な立場であり、多忙であり、私生活に余裕がない。金銭面ではなく時間的に余裕がない。おまけに夫婦共稼ぎが多い。これでは、ますます子作りに励む時間がとりづらい。

夫婦共稼ぎの場合、子供が出来たら出来たで苦労が多い。妻も夫もそれなりに高いスキルを持つので、育児休暇は取りずらい。子供と共に過ごす時間を望んではいるが、仕事への情熱を失っている訳ではないので当人たちも辛い。

昔なら親に子供の世話を頼むこともよくあったものだが、昨今は親のほうがリタイア後の第二の人生を楽しんでいるケースが多く、時々ならともかくも、頻繁には孫の世話を頼むことも出来ない。

かくして先進国では、高学歴の社会人家庭ほど子供がいない。ある意味、当然ではないかと思う。家庭で子供を育てる余裕がない以上、本能的に子供を望まなくなる。いいかえれば、子育てはそれだけ大変なものである。

だが、この少子化はじわじわと社会を蝕む。まず働き手が減るため、社会制度を満足に機能させることが難しくなる。今でさえ一部の業種では人手不足が深刻だが、それが全社会的に拡散することは確実である。

従って予測される将来の日本は、まず間違いなく衰退する。人的資源を活かして江戸時代から大きく発展してきた日本は、その人的資源が減少することで衰退する。これは不動の結論であると確信している。

そんな日本にとって重要性が増すのが、経済面でライバルとなっているアジア諸国となる。今や大企業のみならず、中小、零細であっても、なんらかの形でアジア市場とつながっている。

嫌だろうが、なんだろうが、アジア諸国とは今後物資、人材、サービスと様々な面での交流が増えていく。特にこれまで市場としてあまり重視してこなかったインド、インドネシアといった人口大国とは、これまで以上に交流が進む。

日本はこの時流に乗っていけねばならない。まずは国内における外国人への些細な規制から順次改革する必要がある。一例を挙げれば、まず印鑑だ。印鑑を廃止しろとは言わないが、サイン証明を認めるべきだろう。

単なる規制緩和だけではなく、犯罪面などを考慮しての規制強化も必要だ。水という貴重な資源を守るためにも、水源地などの自由な売買は認可制にするべきだ。また情報流出などを防ぐためにも、スパイ防止法の制定は必要不可欠だ。

同時に、英語だけでなくアジア諸国で使われる各国語の通訳を増やすことも必要となる。これは一朝一夕では片付かない課題でもある。既に裁判所は、増大する外国人からみの裁判に音を上げている。人材はもう不足しているのだ。

表題の本が書かれたのは、今から10年近く前だから、現実にはもっとアジアビジネスは進んでいる。それでも読む価値があるのは、欧米視点でしか世の中をみれない人が多いからだ。

商売は終夜運転の電車にも似て、止まってしまったら御終い。それは国家も同じこと。社会の変化に対応していかねば生き残れない。この厳しい現実を受け止めるためにも、アジアビジネスの知識は、今後一層重要になると思います。

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戦争と報道

2015-02-03 12:25:00 | 社会・政治・一般

ジャーナリストは平和な職業だと勘違いしている人って多いような気がする。

ナャ激Iン戦争の最中だが、有名なワーテルロー会戦の直前、あるイギリスの将軍は「あの丘の向うがどうなっているかが分かるのなら、ひと財産投げ出してもいい」と嘆いた。

航空機が最初に戦場に投入されたのは、第一次世界大戦なのだが、その最初の任務は偵察であった。戦争においては、情報は勝敗を決してしまうほど価値がある。

だからこそ、ジャーナリストは戦場では警戒される。喩え武器を持っていなくても、ジャーナリストと分かれば、すぐに拘束して如何なる情報を持っているのか確認したくなる。これは戦場の感覚では常識だと云っていい。

情報は使い方次第で武器になる。これは太古以来、変わらぬ不変の事実である。如何に情報を入手するかに、戦場の指揮者たちは大いに苦労したものだ。

しかし、民主主義という変わった概念が発生して以来、情報に新たな使い方が求められるようになった。市民という有権者が適切な投票行動をとるためには、適切な情報が必要となる。その情報を提供する役目を担ったのが新聞やTVであった。

平和な時代なら、ジャーナリストの役目は政治がどのような活動をしているかを報じるだけで良かった。だが、国家の存亡がかかる戦争では、マスコミは政治の道具となる。

大本営発表に象徴されるように、当初のマスコミは戦意高揚を目的とした宣伝行為が求められた。事実を報道するのではなく、国家にとって望ましい真実を報道することがマスコミに求められた。

だが、皮肉なことに、その意図的な宣伝広報こそが、ジャーナリストの自我を目覚めさせた。新聞や雑誌がマスコミ媒体であるなら、国家の思うとおりになっただろう。

しかし、ラジオが反政府ゲリラに使われるようになると様相が変わってきた。一番決定的なのは写真の存在であった。如何に高らかに戦場の勇気を讃えようと、写真が写しだした悲惨な画像が事実を語らずとも伝えてしまった。

そうなると、戦場におけるジャーナリストは軍や政府にとって好ましからざる存在と成り得ることが分かった。それどころか、ジャーナリストに扮したスパイによる情報収集さえ行われるようになった。

戦場においては、ジャーナリストは潜在的な敵と成り得る存在である。同時に、ジャーナリストを上手く使えば、政府や軍の意図する目的を実現するために有効であることも分かっている。

現代社会において、戦争報道ほど判断に悩む情報は稀だ。何が正しくて、何がそうでないのかの判断は情報のプロでも難しい。ユーゴスラヴィア戦争において、一方的に残虐な侵略者とされたセルビアや、アフリカ内戦におけるツチ族の悲劇などはその典型である。

戦乱の地から遠く離れた平和の国である日本においては、戦場における報道の難しさは適切には伝わらない。今回のイスラム国の取材だって、本当に危険な場所で取材活動をしているのは、末端の零細なフリージャーナリストが主となっている。

日本の大手マスコミの記者たちは、安全なホテルにこもり、英文や仏文の翻訳に明け暮れていて、たまに安全が確認された野外に立って、如何にも危機感たっぷりに報道しているであろうことは容易に分かる。

彼らにとっては、今回の人質事件などは、まさに絶好の表舞台に過ぎないのだろう。それは日本国内においても同じこと。政府の足を引っ張ろとする野党の政治家の善人アピールぶりには呆れてものがいえない。

今回の人質事件と、安倍総理の中東訪問を結び付けて賢しげに批判している人もいるが、勘違いも甚だしい。如何に平和憲法を振りかざそうと、日本はイスラム国の友好国にはなりえず、徹底的に欧米の側に立っている。

それともテロリズムに資金援助をすることが平和の道だとでも言いたいのだろうか。平和ボケという言葉で片づけたくはないが、マスコミも政治家(特に野党)も、まともな戦争常識を身に着けて欲しいものです。

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生、なお恐るべし アーバン・ウェイト

2015-02-02 11:16:00 | 

自由に生きる自由はない。

現代社会に生きる以上、その定められた法律や制度に縛られる。その縛られた枠の中での自由であり、制約された自由でもある。自由なんて、所詮その程度のものだと思う。

だが、そんなあり方に本能的に反発する自分がいる。法律や制度を守ることを嫌っている訳ではない。むしろ健全な一市民として生きていきたいと素直に思っている。

ただ、本能的にこうあるべきだと思っていることがあり、それが必ずしも法規に一致しないことはある。しかし、己の信念として守るべき正義はある。不幸なことに、法制度が定めた枠と、己の信念による正義に微妙なずれがあると、それは人生を不自由なものしてしまう。

表題の書の主人公も、本質的には善人であり、己が正しいと信じる正義を守る一人の市民に過ぎない。しかし、一つボタンのかけ間違えというか、若き日の小さな誤りが、彼の履歴書に汚点を残してしまった。

犯罪歴のある人間に現代社会は優しくない。それでも彼は悪人ではなく、ただ社会の法規制の枠から微妙にずれたところに追いやられた、無力な善人に過ぎない。

そんな負い目がありながらも、彼はささやかな牧場を営み、愛する妻とつつましく暮らす。ただ、その幸せを維持するには、もう少しお金が必要となる。だから、彼は密かに運び屋をやっていた。中身が違法なものであることは、容易に想像がついた。

しかし、自らの幸せを守るために、ちょっとだけだと自らを納得させていた。しかし、それを目撃してしまった保安官補がいて、逃げ出さざるを得なくなった。それどころか、その責任を追及する悪党どもから命を狙われる羽目に陥った。

事の発端となった保安官補も、実は過去に負い目を持っているがゆえに、主人公の立場に気が付いた。その置かれている状況に思い至り、複雑な気持ちを抱く。

逃亡する主人公と、それを追いつめる殺し屋。その状況を追いかけつつも、複雑な心境で悩む保安官補。三者が織りなす人間模様は、劇的な終末を迎えるが、そこでの意外な結末が、この小説の肝となっている。

悪人ではないが、完全に法令を守っている訳でもない主人公は、たしかに罪を犯している。しかし、読者は気が付かざるをえないはずだ。誰の身にも起こりうることで、ほんの僅かなズレが人生を破たんさせることを。

最後に頼りになるのは、本人が守りたいと信じる正義の信念であることが爽快な、稀有なクライム・ストーリーだと思います。機会があったら是非どうぞ。

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