ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ロボット・レストラン

2015-02-13 16:46:00 | 日記

困った、困った。

主にシナ人やフィリピン人の在日外国人を雇用している社長さんから誘われて、新宿のロボット・レストランとやらに行ってきた。数年前になにかの雑誌で取り上げられていたのは読んだが、特に気には留めていなかった。

また改造したトラックと思しき宣伝車を見かけたこともある。正直言って、一時的な話題集めのお店だと思い込んでいた。特段関心もなかったが、実はこのお店、日本を観光で訪れた外国人の間では評判になっているらしい。

ネット上の口コミサイトで評判が広まり、それが日本に定住している外国人に伝わっているそうだ。社長さんも従業員から教わり、連れて行って欲しいと頼まれたそうだ。当の日本人はそんな評判、まったく知らないわけで、件の社長さんが「先生も一緒にどうぞ」というので、それじゃあ行ってみることになった。

場所は新宿歌舞伎町である。かつては風俗店が軒を並べる怪しげな通りであったが、石原都政下での歌舞伎町浄化作戦により、一応健全化させられたことになっている。

とはいえ、そこは歌舞伎町だ。かつての風俗店は居酒屋になっているケースが多いが、どうみてもキャバクラとしか思えない店も生き残っている。で、お目当てのロボットレストランだが、ここもご多分に漏れず、間違いなく元キャバクラ系のお店を改装したものだ。

ビルの3階にあるけっこう広い待合室にてショーを待っているのは、ほぼ9割がた外国人観光客である。欧米系が多いが、シナ人もけっこう居る。はて?外国人向けの観光施設なのかな。

いよいよ案内されたのだが、階段を地下二階まで下りて長方形の部屋に相対する形の席に座らされる。なお、レストランとの表記は忘れたほうがいい。幕の内弁当か、サンドイッチ、あるいはおつまみセットのような食事が渡されるだけである。食事は他の店で済ませたほうがいい。

で、いよいよショーが始まるのだが、感想を述べるのに困ってしまう。かつてのキャバクラのショーからお色気を除いたような踊りと音楽で始まり、これまた太鼓の響きも凄まじく、勇ましいことこの上ない。

水着なんだか、コスプレなんだか分からないが、若い娘さんたちが太鼓をたたき、ダンスをする様は噂に聞く秋葉原の地下アイドルを思わせる。もっとも私の前の席の白人男性は、ミニスカートから覗ける下着(見せパンだと思うが)ばっかり見とれている。

日本の伝統的な祭りを電飾とロックミュージックで彩ったようなショーに驚くやら、呆れるやら。ロボット?いや、ロボット風被り物だと思うが、これまた感心してイイやら、悩んでいいやら。

もっとも私が一番驚いたのは、あの狭いスペースに電飾カーやらロボットやらを運び込み、動かし会場を周回させる器用さであった。よくぞ、まァ、あの狭い会場であれだけのショーが出来るものである。

途中、二回ほどの休憩をはさみつつ、ショーは延々と続き、あげくにカンフーパンダは出てくるは、大蛇は練り歩くはと、なんと評したら良いのか困る。外国からの観光客はけっこう大喜びしていたが、我々日本人及び在日外国人の表情は微妙である。

これを日本だと思われると、ちょっと困る、困るぞ。

だが、よくよく考えてみると、これこそ現代の日本なのかもしれない。伝統文化と現代文明の利器が溢れ、混在し、渾沌とした都市文化を築いているのが日本であり、外国から来る観光客には、まさに期待している日本なのかもしれない。

まァ、一時間半あまりのショーは堪能できたが、これで7000円は少し高い。少し前までの4000円で相当だと思うぞ。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第二次ギリシア金融危機

2015-02-12 13:10:00 | 社会・政治・一般

四年前だが、ユーロ危機が世界中を駆け巡った時のことだ。

ある金融機関の会計担当者に、不良債権の評価はどうなっているのかを尋ねたところ、まったくしていないと言われて唖然としたことがある。

もちろん当人も困惑していたが、不良債権の評価の基準が出ていないため、明確な数字が出せないので仕方がないようだ。これがアメリカの不良債権ならば、現在価値から割り出した不良債権の評価額が算出できるのだが、当時のヨーロッパには明確な基準がなく、貸倒引当金を計上したくても出来ないと嘆いていた。

その時は、本当かよ?と疑問に思っていたが、実際のところアイルランドの国債や、ギリシアの国債は、様々な金融商品に分散され、更にリスクヘッジと称して小口化されて、その証券が複数の投資信託などに紛れていたために、不良債権の個別の金額を評価することが難しかったようだ。

そして、呆れたことに破綻して初めて、その影響の大きさに気が付く体たらくであった。だが、ユーロ及びドルは大幅に紙幣を増刷させて、この金融危機を乗り切った。

一方、ひたすらに独自の基準でユーロ危機の日本国内への影響は少額だとして、デフレ政策を維持し続けたのが当時の民主党政権下での白川・日銀であった。しかし、直接にアイルランドやギリシアの国債を保有していなくても、それらの国債に分散投資していた金融商品を多数抱えていた日本の金融機関は後になって慌てる羽目に陥った。

おまけに日銀は低金利デフレ政策を続けていたから、嫌々買わされる日本国債の収益性の悪さとも相まって、日本の金融機関の財務体質は悪化する一方であった。

ようやく民主党が下野し、安倍第二次政権が成立し、黒田・日銀が誕生すると、すぐに通貨発行量を増やして、擬似インフレ状態を目指した。これでようやく金融機関は一息就くことが出来た。

しかし、ここにきて緊縮財政に呻吟するギリシア国民の意を受けての新政権が誕生したギリシアでは、従来の緊縮財政を否定している。ユーロの圧力を嫌がる国民の意を受けて、盛んに債務削減などを求めているようだが、ドイツやフランスなどは冷ややかだ。

もし仮にユーロを抜けて元の通貨に戻れば、劇的な貨幣価値の下落によるハイパーインフレになり、今以上にギリシアは疲弊すると読んでいるからこそ、西欧は冷ややかなのだろう。

だが、果たしてそれで済むだろうか。今年年初、私はいつものようにCNNやBBCを始めとする海外のメディアをぼんやりと聞き流していたが、気になったのが今年はヨーロッパが危ないと論じる識者が多かったことだ。

同時通訳なので、多少の末フ齟齬はあろうかと思うが、単にギリシア危機だけでなく、ユーロ全体に波及することを危惧する論評が目立った。イスラム国やボスコハラムの危機を訴えるものもあったが、全体としては西欧の混乱を予測するものが多かった。

率直に言って、私にはそこまでの危機なのか確信が持てないでいる。ある種の情報操作なのか、それとも本当に危ないのかさえ判別つかない。けっこう気になっていたので、少し調べてみると、東欧向け債権が危ないらしい。

金融情報の開示がアメリカなどに比べて不徹底なヨーロッパでは、債権の焦げ付き具合さえ完全には開示されていない。ましてや、東欧の国々ともなれば、その情報はかなりのバイアスがかかっていることは容易に想像がつく。

ギリシア発の第二次金融危機は、もしかしたらパンドラの箱を開けてしまうことにつながるのか?

例によって、能天気な日本のマスコミは当てにならないので、私なりに調べていこうと考えています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顧客無視

2015-02-10 14:33:00 | 社会・政治・一般

馬鹿もいい加減にしろ。

TVのCMを見て、思わずつっこみたくなった。なにが「損保ジャパン、日本興亜、損保ジャパン、日本興亜~♪」だ。

そんな長ったらしい間抜けな社名、誰が付けた。誰が認めた。なんでも顧客に愛着のある名称なので残したかったとのことだが、そんな顧客がいるのか?

顧客というより、元の社名を残したいのは、他でもない各損保会社のお歴々であろう。顧客にとって大切なのは社名ではなく、保険サービスである。社名がいくら変わろうと、別に未練も愛着もありゃしない。

通常、組織というものは拡大基調にあるときは、子会社や関連会社を作っていく。一方、損失が拡大し、負債が増大するような下り調子の時には、組織を縮小するものだ。

損害保険会社がこのところ合併を繰り返しているのは、経営状況が悪いからに他ならない。もちろん本音では合併なんかしたくない。だが、保険業界全体の安定を要求する監督官庁である金融庁と、それを後押しする財務省の絶えざる要求に屈しての合併であることは容易に分かる。

嫌々の合併なので、どうしても社名に未練がある。だから、顧客のことなんざ全く考えずに、馬鹿らしくも長ったらしい間抜けな社名になったのだろう。想像だけど、どの旧社名を先頭にもってきて、次はどこかなんてクダラナい争いがあっただろうと意地悪な私は邪推している。

まァ、これは損害保険会社に限らないが、旧大蔵省の下で箸の上げ下げまで指導されたとされる日本の金融機関は、常に霞が関を覗いつつ、内部で足の引っ張り合いをすることが経営だと思っているらしい。

つまるところ、顧客のことなんざ念頭にない。

意地の悪い私の邪推であることは承知しているが、銀行にせよ保険会社にせよ、本当に大切に思っているのは監督官庁であり、社内の上司とOBたちでしかなく、顧客のことなんざ視野に入っていないのだろう。

CMで演技している若いイケメンのお兄ちゃんたちには罪はないだろうけど、私はこのCMを見かけるたびに悪態を吐きまくり。まったくもって精神衛生に悪いぞ。いっそうのこと、寿限無損保とでも名称を変更せんかい!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱虫ペダル 渡辺航

2015-02-09 12:03:00 | 

男の子って奴は、誰でも一度は自転車にはまる。

とにかく、朝から夜まで自転車を漕ぎまくる。ただ、ひたすらに自転車で走る。なぜなら男の子だからだ。理由?そんなのいくらでもある。ペダルを漕ぐだけで、自分の脚では出せないスピードが出る。

まるで自転車が自分の脚になったような錯覚を感じながら、遠くまで、遠くまで、どこまで行ける気がする。自分が強くなったような気がしたものだ。自転車って素晴らしい。

現実問題、自転車に乗りまくる男の子ならいくらでもいたが、なぜか女の子は見かけたことがない。本当にない。なんとなくだが、女の子にとって自転車とは、目的地まで速くいけるだけの手段にしか過ぎない気がする。

むしろ自転車に乗ると、髪型が乱れるとか、服装に気を遣うとか、余計なことばかり気にしていたようだ。お年頃の女の子には、自転車はお洒落なものではなかったように思う。

でも、そんなことはどうでもいい。とにかく自転車だ。自転車がいいんだ。ペダルを漕いで、ひたすらに道を駆ける喜びは、何物にも代えがたい。私は典型的な自転車小僧だった。

高校まで片道6キロで往復12キロは足慣らしに過ぎない。週三日は原宿の塾に通っていたのであるが、これも当然に自転車で片道8キロ、往復で16キロである。もちろん寄り道もするから、日によっては一日30キロ以上は自転車を漕いでいたわけだ。

予備校から大学に通うまでの一時期、パチンコの稼ぎで買ったスクーターに乗っていたこともあるが、どうも私はマッポとは相性が悪く、道路交通法は天敵に近い存在である。そんな訳で、再び自転車に乗り換えた。

大学3年からは、父に車を与えられたが、それでも普段はひたすらに自転車漕いでいた。おかげで、十代の頃は乗り潰した自転車は片手では収まらない。あまりに乗り過ぎたので、フレームが歪むらしく、真っ直ぐ走らなくなったら、それが買い替え時であった。

でも、当時から気が付いていた。私よりも自転車にはまっている連中が沢山いることに。真面目にロードタイプの自転車に乗る奴から、いわゆるママチャリに乗る奴らまで、自転車小僧は沢山いた。

表題の漫画の主人公もその一人だ。元々坂の多い町に住み、そこから遥かに離れた、おたくの聖地である秋葉原まで自転車で通う、細身で小柄で弱気そうな、どこにでもいる若者だ。

ただ、その異常なまでに鍛えられていた脚力が彼を自転車競技に引き込ませた。現在、週刊少年チャンピオン誌で人気を博し、TVアニメ化までされた傑作である。ちょっと癖のある画風ではあるが、これ意外とはまります。私も毎週立ち読みを欠かせません。機会がありましたら是非どうぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闇の子供たち 梁石日

2015-02-06 12:04:00 | 

善意ですべてが解決することはない。

とりわけ解決が難しいのが人間の本能に根ざす行為だ。人は理性ある生き物ではあるが、本能の誘惑には勝てない。これはいくら法律や制度で厳しく縛っても、抑えることは難しい。

苦痛に耐えることは出来るかもしれない。しかし、快楽に抵抗できる人は極めて少ない。とりわけ生殖本能に根ざした快楽を抑制することは不可能に近い。いかなる厳格な法律も、厳しい戒律も、本能を完全に抑え込むことには失敗している。

言っておくが、私は幼児売春には反対だし、ましてや子供の臓器販売なんて、もってのほかである。しかし、その非道さ、残虐さ、無慈悲さを告発するだけでは解決しない。いくらデモ行進しても、なくならない。

はっきり言えば、善意で本能は抑えきれない。

だが、解決策がない訳ではない。幼児売春を無くすには、親に子供を売らせないことだ。人類にとって、長い間子供の数が多いのは、働き手が多いことを意味していた。大事な働き手を売るようなことはしない。

しかし、近代化と資本の集中による工業が成り立つと、その効率化され、大量生産された製品に手工業品、農産物は価格競争力をなくした。いくら苦労して働いても、それに見合う対価を受けることが出来なくなった。

経済の近代化とは、農業漁業の犠牲のもとに推し進められた。流通の発達は、かえって貧困と格差を拡大させることにつながった。その結果、かつては貴重な労働力であった子供の価値が大きく損なわれた。

子供がいくら親を手伝って働いても、その対価は少なすぎる。先進国ならば、子供を学校へ行かせて高等教育を受けさせて、近代工業に従事させることが可能だ。しかし、後進国ではそもそも学校教育自体が未成熟だ。

かくして、親は子供を売ることになる。これを非人道的というのは容易い。しかし、近代資本主義こそが、後進国における子供の価値を貶めた張本人である。

親が自ら生き残るために子供を売り払う。それを一方的に非難することに、私は違和感を禁じ得ない。

だからといって、幼児売春を肯定する気はないし、ましてや臓器売買などひどすぎると思う。そう思う人は少なくないため、この本で書かれているような幼児売春の悲惨な実態を告発し、幼児の臓器売買の非道さに抗議の声を上げるのであろう。

だが、この本で描かれているように、救われるのはホンの一部だけで、大半はおぞましき利権が温存され、告発者が惨殺され迫害されることで終わっている。

善意の告発では解決できないのが現実だ。

即効性のある解決策は、おそらくない。残念ながらない。だが、まったく解決不可能だとも思わない。まずは貧困対策から始める事だろう。高付加価値のある商業作物を作らせて、収益を上げられるようになれば決して子供を売りはしない。

実を云えば、現時点で一番収益性の高い農産物は芥子である。つまり麻薬の原材料こそが最も貧困対策になっている。だが、これはこれで犯罪性があり、国際的な支援は出来ない。

そこで一部のNGOでは、商品性が高く、高収益な農産物などを途上国の農家に指導している。商社なども協力しているようで、時間はかかるが農家が貧困から抜け出せれば、子供を売り払うようなことはしなくなるはずだ。

もちろん簡単ではない。農業というものは天候に左右され、また鳥や獣、害虫などの被害もあり、決して安定している訳ではない。また高値で売れると分かると、農家のほうでも足元をみてふっかけてくることも珍しくない。決して簡単な道ではない。

しかしながら、金銭的な欲望を充足させることで、子供の売却を止めさせることは出来る。いささか、あざといのかもしれないが、善意だけでは解決しない問題なので、時間がかかっても推し進めるべきだと考えています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする