ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ブロッコリー

2017-02-21 12:03:00 | 健康・病気・薬・食事

つぶつぶ感が好き。

私は冬になると、ポタージュを良く作る。ジャガイモのポタージュが多いが、ニンジンやカボチャで作ることもある。この冬、新たに加わったのがブロッコリーのポタージュだ。

ブロッコリーは花が開花する前の蕾を食べる。蕾以外の部位は、捨てられることが多い。私も暇な時を覗けば、茎の部分は捨ててしまうことが多い。暇な時は、その茎を刻んで炒めたり、煮込んだりして食べることもある。

今回、試してみたのはポタージュである。

普通は、蕾の部分も含めて作るのだが、今回は敢えて茎の部分だけ使ってみた。なるべく簡単で手早くがモットーなので、まず香付の大蒜の小片を炒める。一端取りだして、適当に切り刻んだ玉ねぎをバターで焦がさぬように炒める。

その間に、ブロッコリーの茎を小さく刻む。玉ねぎに色目が付いてくると、さきほどの大蒜とブロッコリーを入れて、炒める。火が通ったあたりでホーロー鍋に移して水を入れて、コンソメを入れて煮込む。

具材が軟らかく煮えたと思ったら、火を止めてミキサーに移して、あっという間にドロドロにしてしまう。それから適当に牛乳を入れて、軽く掻き回してホーロー鍋に戻す。ちなみに、ホーロー鍋は、ミキサーを使っている間に、一度洗っている。

弱火でコトコト煮込む間に、ミキサーを洗ってしまう。吹く前に、塩コショウをして、味加減を整える。これで出来上がり。正味、40分くらいで出来る。

いざ食してみると、微妙なつぶつぶ感があって、その変った感触が楽しい。ただ、茎しか使ってないので、どうしても薄味になる。ジャガイモやカボチャなどに比べると、どうしても味が浅く感じてしまう。

だから、私は最初の一杯を頂いた翌日、チーズを入れて味を濃くしたり、野菜を煮込んだりして味の変化を楽しむようにしている。ちなみに、この正月休み中に、大蒜を切り刻んで加えて煮込んだら、えらく大蒜くさいポタージュになってしまった。これは失敗だったなァ。

でも、冬はポタージュを作るのは楽しい。冷え込んだ台所も、すぐに暖かくなる。ただ、ブロッコリーのポタージュは、茎だけよりも蕾の部分も入れて作ったほうが美味しいですよ。

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軍事研究の是非

2017-02-20 12:49:00 | 社会・政治・一般

学者であっても、馬鹿は馬鹿。

そう思わざるを得ないのが、日本学術会議とやらが出した馬鹿げた答申だ。大学における軍事研究の是非を議論したものだが、予想通りというか、相変わらずというか、脳内お花畑信者の根強さがよく分かるものであった。

軍事に関する研究は、戦争への道だから絶対ダメ。学者としての良心が云々・・・

寝言は寝て言え。

平和を守るための軍事研究という視点はないのか。人類という哺乳類は、直立猿人であったご先祖様の頃から、戦いとは無縁ではいられなかった。それは自らの生存を賭けた戦いであり、自らの幸福と繁栄を求めての戦いであった。

その数百万年の進化の過程の中で、直立猿人たちは興亡を繰り返し、最終的に生き残ったのが現生人類たる我々である。戦いの勝者であるがゆえに生き残ったのであり、平和を愛する気持ちはあろうが、戦争に長じていたからこそ、今日生き残った哺乳類である。

お花畑で平和の舞に酔い痴れるのは、夢の中だけにして欲しい。

人類の歴史から戦争がなくなることはなかったし、これからもない。人が人であるが故に、戦争はなくなることはない。

だが、戦争はあまりに破壊性の強い病毒のようなものだ。ならば、真剣に研究し、その有害性を弱めたり、短期間で終わる様な現実的な方策を研究する必要があろう。

先進国で、大学の授業に軍事学がないのは日本だけだ。戦争という現象を研究し、いかに効率よく行い、的確に終わらせるかを、最高学府が研究しなくて、なにが学者だ。

戦争という現実から目を逸らすことが、平和につながると思っているのだろうか。日本学術会議が如何に異常か、よく分かるニュースであったと思います

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LIVE!オデッセイ 谷口ジロー

2017-02-17 14:33:00 | 

また一人、偉大な才能がこの世から姿を消した。

決してメジャーな漫画家ではなかったと思う。世間の耳目を集めたのは、晩年になってからだ。理由はいろいろあると思うが、その画風は古典的であり、漫画というには明るさに欠け、劇画というには泥臭過ぎた。

私は一時期、文学作品の挿絵にしたら一級品となると考えていた。そのくらい、その画風には重みがあった。しかし、漫画家が表紙のデザインをすることも珍しくなくない今と、当時は事情が異なった。

谷口ジローの画風には、ある種の泥臭さがある。だからこそ、野生を描かせたらリアリティ溢れる画風となった。また、その泥臭さは人間の暗い面、しぶとさなどを表現しており、それこそが純文学の表現者たり得ると判じた根拠であった。

そう思っていた漫画編集者は少なくないはずだ。それがその後の活躍につながる。しかし、不遇の時代はけっこう長かった。その最大の理由は、彼がマイナーな雑誌で連載していたからだと私は考えている。

漫画ゴラクを筆頭に、漫画パンチ、漫画ギャング、そしてエロトピアといった大人向けの漫画雑誌であり、深夜営業のラーメン屋や、工事現場の簡易事務所の畳の上に無造作に置かれているような雑誌ばかりである。

掲載雑誌が品のイイ大手出版社のお偉方から見下されるようなところばかりであったことが、彼の不遇な境遇からの脱出を難しくしたのではないか。私はそう疑っていた。

そんな谷口ジローのターニングポイントとなったのは、週刊平凡パンチという青少年向けの雑誌に連載された表題の作品ではないかと思う。週刊プレイボール誌のライバルとされ平凡パンチではあるが、正直大きく負け越しており、そのためか奇策に打って出ることが多かった。

谷口ジローの採用も、その戦略からのものだと私は睨んでいる。インディー・ロックバンドとして短期間に人気が出たものの、ボーカルのオデッセイの逃亡により、消えてしまったバンド。

そのボーカルがアメリカから帰国して、迷いながらも再びステージに立つことを決断する。それを複雑な想いで見守り、付いていくかつての仲間たち。ロックという音楽の漫画化は、先駆者として水野英子の「ファイヤー」があるきりで、当時は難しい分野であった。

泥臭い谷口の絵柄からは、汗を飛ばしながらステージ上でシャウトするオデッセイの迫力が繰り出されてきて、ロックンロールを見事に画像化することに成功している。この漫画以降、インディーズロック・バンドのブームが来たのは偶然であろうが、たしかに時代の先駆者たる作品であったと思う。

敢えて成功者の少ない難しい分野に挑んだ谷口ジローの心意気や良し。掲載誌が平凡パンチであったため、ビックヒットとはならなかった。しかし、その才能は眼力ある漫画編集者の目に留まり、その後大手漫画雑誌への連載につながった。

やがて「坊ちゃんの時代」「孤独のグルメ」などのヒット作を世に出した頃には、既に谷口は老齢であり、味のある画風に昇華していき、フランスなどでは高く評価されている。

その谷口の訃報が伝えられたのは先週のことだ。偉大な才能がまた一人、消え去ってしまった。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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自動車はいつまで乗れるのか

2017-02-16 12:27:00 | 社会・政治・一般

果たして石油は、いつまで採取できるのだろうか。

石油の埋蔵量情報くらい、当てにならないものはない。信頼に値する情報でないことは、素人でも分かる。ただ、確実に原油の埋蔵量自体は減っているのだろう。地球上に残された最後の原油は、おそらく北極海の海底と、南極大陸に残されているだけではないだろうか。

いずれにせよ、限りある資源である以上、いつかは枯渇する。その時が来たら、社会は大きく変貌することを余儀なくされると思う。なんといっても、現代文明は石油を燃やすことで成立している以上、その石油の枯渇は大問題である。

石油は化学製品にもなるが、何よりもガソリンとして動力エンジンを動かす燃料として活用される。船や飛行機もそうだが、なにより自動車の燃料として普及していることが大きい。

我々現代人は、果たして自動車という魅力的な移動手段を諦めることが出来るのだろうか。その懸念があるからこそ、近年に至りハイブリッド車や電気自動車、水素自動車などが開発され、実用化を目指すようになったのだと思う。

私の予想では、石油以外の発電所を十分備えた一部の国以外では、自動車は姿を消す可能性が高いと思う。鉄道が交通手段の主流となり、汽船などの船舶も活用されるだろう。

自動車は、十分に電気を供給できる一部の国でのみ、生き残るのではないかと想像している。では、世界の大半は、個人の移動手段として、自動車以外に何を選択するのだろうか。

近距離なら自転車でいい。しかし、自転車は道を必要とする。荒野においては、自転車は必ずしも理想的な移動手段とはなり得ない。そうなると、馬が復活するのではないかと、私は予想している。

自動車や鉄道が登場する以前は、馬こそが人類でもっとも普及した移動手段であった。もっといえば、近代以前では、馬を駆使した文明が、人類の主流であったと云えないこともない。

現代文明は、農耕社会から都市を発達させて、産業革命により飛躍している。だから、騎馬民族を軽視する傾向が強いが、古来騎馬文明こそが、人類の交流と発展を促す中心的存在であった。

馬という移動手段がなかったら、広大なユーラシア大陸の東西交流、あるいは東西侵略は不可能であったであろう。一応書いておくが、侵略あるいは戦争は、如何に道徳的に否定しようとも、人類の技術発展に大きく寄与している。

特に鉄器の普及には、戦争が大きく貢献している。加工が容易な青銅器とは異なり、鉄の加工にはかなりの技術的進歩が必要となる。鉄は農業に於いて、耕作を大きく発展させ、農業生産力を大きく伸ばした。

また鉄製の武器を備えた軍隊と、青銅器製の武器を備えた軍隊が戦えば、前者が圧涛Iに有利となる。鉄の精錬技術が、どこで確立したのかは未だ確定していないが、小アジアもしくは中央アジアであった可能性が高い。どちらも騎馬民族の棲息地帯であり、騎馬民族はその鉄製の武器をもって世界各地を侵略し、簒奪した。

その騎馬民族に襲われた地域では、必然的に鉄器の有効性が認識され、買いとったり、盗んだりして、鉄器は世界各地に普及する。馬という移動手段をもった民族こそが、鉄器の普及者であった。

ところで、その馬を乗りこなすのは容易ではない。当初は、ただ乗るだけで大変であった。馬具のない馬に乗るのは至難の業だ。モンゴル人などの遊牧の民でさえ、裸馬に乗るのは苦労する。

実はその馬具の発明は、人類史にとっては、後の三大発明(羅針盤、活版印刷、火薬)に匹敵する重要なものであった。鐙に足を乗っけることにより、馬上で武器を振り回すことが可能になった。轡があるからこそ、馬を目的の方向に動かすことが出来た。そして、蹄鉄を打ったからこそ、長距離の移動が可能になった。

騎馬民族は単に侵略するだけでなく、交易もするし、文化交流の役割も担った。ユーラシア大陸の歴史を語る上で、彼ら騎馬民族なしの歴史はありえない。それほど、馬と人類は密接な関係にある。

現代でも、車が入りづらい南米のアンデス高原や、中央アジアの山岳地帯では、馬が主要な移動手段になっている。石油がなくても、馬は動く。3千年以上にわたり、人類の交通手段であった馬は、石油の枯渇とともに、再び復活するかもしれないのです。

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異世界食堂 犬塚惇平

2017-02-15 14:54:00 | 

間違いなく私は食いしん坊。

表題の作品は、ライトノベルであり、少し前から漫画化もされ、アニメ化も近いらしい。つまり人気がある。

オフィス街にある平凡な食堂なのだが、土曜日はお休み。いや、休みではない。週末限定で、この食堂の入り口は、異世界につながってしまう。この店の美味しい食事に惹かれて、異世界の魔物たちが腹をすかして訪れる。

ただ、それだけなのだが、その魔物たちが食べるメニューが、平凡ながら実に美味しくみえてしまう。定食屋で出る簡単なものばかりなのだが、シンプルだからこそ奥が深い味わいとなる。

人間の食事なんてと馬鹿にしていたプライドの高いエルフを驚愕させる豆腐のステーキや、世界を滅ぼす力のある最強の魔獣ドラゴンを陶酔させる、ビーフシチューが実に美味しげに読める。気軽に読めるライトノベルであり、短編集なので尚更気ままに読める。

読んでいると、お腹の虫が鳴いてしまう。だって、実に美味しそうなのだもの。

ダイエット中の方は目に毒なので、読まないほうがいいです。絶対、食べたくなること請け合いですから。でも、こんなお店、実際にあるのかしらん。平凡なメニューこそ、美味しく作るのが難しいことは、日々痛感してますからねぇ。

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