ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

累犯障害者 山本譲司

2017-02-02 13:18:00 | 

野性の世界では、適者生存の原則が厳しく貫かれている。

強いものが正しいとされ、生き残ったものが正しいと結論付けられる。だから野生の世界では、心身に欠陥があれば、自然と淘汰されてしまう。残酷なまでに透徹した生存競争の原理が存在する。

しかし、人間は違う。社会性が強いだけでなく、食料の備蓄、共同作業など複雑な集団社会を作れる人間の世界では、多少の心身上の欠陥があれど、集団の構成員から助けられることにより生きることが可能になる。

本来は生存が難しい障害者が、社会の助けにより生きていける。それだけでなく、子孫を残すことも出来る。だからであろう、人間という哺乳類には、障害者の割合が高い。他の種では、これほど多くの障害を抱えた同族を抱えることは無理だろう。

でも、やはり無理というか、不自然さが付きまとう事実は無視できない。

正史に記載されることはないが、彼ら障害者が社会のなかで置かれていた立場は、決して明るくはなかったのが実情であろう。表題の書でも取り上げられていたが、女性の知的障害者の場合だと、売春宿に囲われていることは少なくなかったはずだ。

それは福祉的な保護政策があるはずの現代日本でも、なくなることのない不愉快な現実である。いくら行政が保護しようとしても、肝心の女性が、施設や家庭よりも、自分を可愛がってくれる男たちが訪れる売春宿にいることを幸せだと思ってしまう。

それを搾取している男たちがいるのも確かだが、自分が一人の女として男の腕の中にいるほうが楽しいと当の女性が本気でそう思っている以上、行政ができることは限られてくる。

男の場合なら、健常者が嫌がるような汚れ仕事を押し付けられているケースも散見する。それを差別だと誹謗することは容易いが、その一方で健常者が普通に出来る仕事が出来ず、無理にやればミスをして叱られる。それならば、汚れ仕事のほうが幸せだと考える障害者のほうが、まともな判断に思える。

福祉行政は、差別には敏感だが、だからといって解決策をもっている訳ではない。それどころか、福祉行政の枠からはみ出ている障害者の保護には無力でさえある。

その典型が犯罪を犯して収監されてしまった障害者である。彼らの多くは罪の意識はなく、そもそもなにがいけないのかさえ十分理解していない。そして更に不幸なことに、出所してもその犯歴ゆえに福祉行政の枠に入れない。

だから、野宿し、放浪し、辛い思いをするのなら、再び同じ犯罪を起して刑務所で人生を過ごすことを願うようになる。それが表題の書のタイトルでもある累犯障害者だ。

この書には、私も知らなかった障害者の世界と、健常者の常識との違いが、痛ましいほどに書かれている。まさか、聾唖者にとって、手話は必ずしも理想的なコミュニケーションの手段ではないなんて、思いもしなかった。

手話を理解できない聾唖者は少なくなく、そのような障害者が罪を犯し、裁判にかけられた場合、まともな公判が維持できない。手話通訳者が裁判官にむかって、被告に裁判の意図が伝わっていないと伝えているなんて、笑えない喜劇である。

そして、なかなかマスコミは報じたがらないが、障害者により構成された暴力団、詐欺組織が実在し、同じ障害者たちを食い物にしている残酷な現実。

いかに悲惨な事件であろうと、そこに障害者が関わっていると、報じることを自制してしまうマスコミ。その趣獅ヘ分かるが、それでいいのかとの疑問が生じるのも確かである。

著者の山本氏は、かつて国会議員で会った時に、秘書給与搾取事件が露呈して、実刑を受けて刑務所に収監された過去を持つ。その頃から、刑務所内で出会った障害者たちに関心を持ち、その問題を追及している。

山本氏もそうだが、私もこの問題に対して、絶対的な解決策を持っていない。それでも無関心ではいられない。

もう少し、書きたいことがあるので、次回に続きます。

コメント (1)
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