私は二十代の初めに難病に罹患し、9年余りの闘病生活を送ってきた。
複数の病院を転々とし、最後はある大学病院の世話になった。そこには同じ難病を抱える人たちと知り合う機会を得た。私は完全には治らず、自宅療養に切り替わり、何度かの再入院を繰り返しながらも、30過ぎて社会復帰を果たした。
その後も、同病の人たちに関心を持ち、インターネット上でのサイトを中心に交流を深め、オフ会の幹事も数回やっている。延べにしたら、数十名の難病患者と直に会っている。その頃から、漠然と感じていたことがある。
なんとなく、口に出すのが憚れたので、黙っていたが、表題の書を読んで、我が意を得たりと納得したことがある。それは、障害者の常識と、健常者の常識は、必ずしも同じでないことだ。
私が罹患した難病は、大きく分けると幼少期に発病したものと、成人後に発病したものがいる。治りやすさからすると幼少期の方なのだが、反面多感な時期に病に苦しむせいか、通常の子供とは異なる成長を辿るようだ。
「院内学級」というものがある。早期に治った子供はともかく、長期間の闘病生活を送る子供のために、病院内に設けられた教育の場である。ここへ通った子供たちにとって、学校とは院内学級を指すことが多い。
普通の学校では、体育に参加できなかったり、薬の副作用をからかわれたりと、子供にとって嫌な思いをすることが多い。でも、院内学級に行けば、同じ思い、同じ苦しみを知る仲間がいる。
私のみたところ、その院内学級の経験がある子供たちは、成長して病状が安定して大学に進学したり、就職して会社に入っても、どうも健常者とは微妙な違いがあるように思えてならなかった。
うまく表現できないのだが、非常に繊細な人が多く、思い込んだら一途な反面、融通のなさや非寛容性を感じることが何度もあった。これは大人になってから発病した私のような者には感じられない特徴であった。
何度か話してみて、その原因が院内学級で過ごした時間にあるように思えてならなかった。正直、その差異が原因でオフ会で揉めたこともあり、少し嫌気がさして、もう関わらなくなって久しい。
だが、表題の書のなかに、障害者の常識と、健常者の常識の差異があることを指摘している文を読み、そうだったのか、やはり、そうだったのかと納得した次第である。
同時に、その差異が非常に深く、深刻な亀裂であることを思い出し、問題の難しさに呆然としてしまった。障害者が自覚する常識と、世の多数である健常者との常識が乖離している以上、健常者の常識で裁かれることに、障害者が違和感を持つのは当然だ。
でも、抗議の声は届かず、徒労に過ぎないことを誰よりも知っているのが障害者である。ここで、政治は何をやっているのだと怒り、福祉行政の怠惰を非難することは容易い。だが、そんな安易な抗議だけで解決する問題なのか?
民主主義社会に於いては、マスコミの報道が有権者に与える影響は大きい。これまで、障害者が関わる重要な犯罪について、自主的に報道を渋ってきたのは、他ならぬマスコミである。
それが障害者への偏見や差別を助長しないようにとの配慮であることは、私でも理解できる。だが、このままでいいのだろうか。欧米を中心にした調査では、障害者の割合は、全人口の2~3%だとされている。
ところが、日本ではその数が少なくカウントされている。しかし、研究者の調査では欧米と大差がないことが判明している。これは、日本においてカウントされているのは、障害者手帳の交付者だけであるからだ。
つまり障害者手帳の交付を受けていない障害者がかなりの数(おそらく数十万人)居ることを意味している。彼らは行政の保護にもかからず、なにか問題を犯しても、圧涛Iな不利な立場で刑務所に収監されてしまう。そして、出所しても行先がなく、再び罪を犯す。ここに累犯障害者が生まれる。
臭いものに蓋をして、見て見ぬふりをすることで解決する問題ではない。高齢化社会を迎え、福祉の保護の枠に放置された障害者たちの問題を、どうしたら良いのか。
もっと多くの人たちが関心を持つべき問題だと思います。