
5月山桜が咲き出すころ、中央アルプスの残雪が映える
昔、「山気違い」という言葉があった。それを「山キチ」と短縮して言うこともあったが、概してそういう人たちは、仕事や家庭をほったらかしにして、山にはまってしまった人の印象、面影が強い。もちろん仕事や家庭と山を見事に両立させていた人もいたが、そういう人たちのことまで「山キチ」と言ったかどうかは、覚えていない。
初期の日本の登山界は学生がリードした。釜トンネルが開通する前でも徳本峠を越えて、年間5千人もの人たちが上高地を訪れたという記録を読めば、そのほとんどが学生だったとある。彼らは経済的にも裕福な階層の子弟が多く、なによりも山に行く時間に恵まれていた。このころの記録には、そうした若者が、山案内人を平気で呼び捨てにする様子が書かれている。後に、「ブルジョワ登山」などと評した人もいる。
社会人が山の世界に台頭してきたのは、谷川岳が注目されるようになった昭和の初期のころと期を一にしているように思うが、さて、どうだろうか。そのころから、社会人山岳会が雨後の筍のように誕生してくるようになった。 昭和の初期こそ、谷川も学生に先を越されたが、そのうち「日本登行会」などに属す社会人も登場するようになる。昭和8年ごろから、かの「徒歩渓流会」が活躍するようになると、以後、谷川の開拓史からは、大学山岳部の名はすっかり消えてしまう。そしてその傾向は、戦後もかなりしばらくは続いた。
どうも「山気違い」とか「山キチ」と呼ばれた人たちは、街ではなく、山の中で気を吐いていたわけだが、あまり金をかけずにありあまる若い活力を発散させるには、山はぴったりの場所だったのだろう。「3人寄れば山岳会」などと言われるようにまでなった。(つづく)
今日、松本まで、「エウ"ェレスト神々の山嶺」を観にいった。その感想はまた書くとして、いくら何でも7千メートルの高所で、自己確保もせずに垂直に近い壁を登ることは、ありえない。あまりにも非現実的。そういう場面が目に付いた。