
大沢山から第1牧区の方を見れば、まだ大分雪が残っている。決して日当たりが悪いわけではないのに、雪の解けるのも、牧草が緑色に変わるのも遅い。雪が消えれば、待ち構えていたように鹿が来る。そして一番芽を食べ尽す。
昨日のブログに触れて、滅多に人の行かない森や、行く先がどうなっているか分からないような枝沢は、危険ではないのかと心配する人がいた。そんなことを、軽々に人に勧めてもよいのかという意味だ。
これまで、安全登山という言葉は耳が痛くなるほど聞いてきた。しかし、では、具体的に安全な登山とはどういう登山を指すのかと詰めても、無理をしない、余裕を持て、危険な場所には近寄るな、引き返す勇気を持て等々というような抽象的な話ばかりで、悪いがこれでは実際の役に立つか分からない。それに、この通りにして、果たして登山は成り立つのだろうか。
山は安全ではない。だから安全であるかのように言うのは幻想であり、欺瞞である。同じ安全でも交通安全については法律も、規制も、取り締まりも、びっくりするような罰則もある。それでも交通事故は無くならない。これと自然を相手にする登山とを同列にはできないが、にもかかわらず、「スピード出すな」のような空疎な標語と、山の「安全」もまた似たような響きがする。
登山は危険を伴う。そのことをきちんと踏まえて、前提にして、それでも行動するのが登山ではないだろうか。日常にはない自然を相手の困難や、危険があるからこそ、終了点での美しい感動的な眺めにも増してそれを掌中にできた達成感が、登山の喜びや魅力なのだと言えまいか。あるいは、時には無念な敗退であっても、それで折れてしまわない勇気の存在を感じ、知ることが。
人生の終盤にさしかかり、若かりしころの山の思い出を背負い、また山登りを再開する人たちがいる。いまそういう中高年の登山者が増え、事故も彼らの占める割合が急増している。中でも、疲労と気象の変化に耐えれない遭難事故が目立つ。その傾向は今後もまだ続きそうだ。
昨日、今日のブログは、かならずしもこういう中高年登山者を意識して書いたわけではない。しかし、どうしたらよいのか。(つづく)