
春の谷川にもよく通った。初めて一ノ倉に行ったら、雪でひょんぐりの滝は完全に埋まってしまっていたが次回もそのつもりで出かけたら、わずかの間に雪は激減していて、予想外の登下降を強いられた。
最初は中央稜だったが、二度目からの記憶ははっきりとしない。多分、烏帽子の中央カンテあたりだったと思うが、大事にしていた山行記をなくして、今となってははっきりとしない。日本では数少ない岩の殿堂などと言われ、またひとつの山域での遭難事故は世界一だということも、2千メートルに満たない谷川岳という山の名を有名にしていた。
この時から同行者はいつもNだった。彼はすでに谷川を知っていたが、登攀は初めてだったと思う。我々には先輩も指導してくれる人もいなかったから、二人の登攀能力がどれほどのものかは見当もつかなかった。とりあえず、壁の難易度が決められていた「近くていい山」、谷川岳の岩場を攀じて、そのころの自分たちの実力がどの程度かを試し、知りたいと思った。
一ノ倉の谷は暗く陰気だと聞いていたが、初見参の時の天候は素晴らしく、写真でしか知らなかった衝立やコップ、正面の沢やルンゼと意外と広い谷を間にはさんで滝沢の下部、そしてその上部の不気味に光るスラブやドームが、腕試しの相手になってくれようと待っていた。まさにそう見えた。
あのころは谷川のみならず、自然の美しさなどというものは付随的なものだと考えていた。しかし、今は違う。あの風景の中に知らず知らずのうちに沁み込んでいった強い思いが、時には陰惨な谷の記憶さえもいつの間にか彩(いろどり)を変え、深い陰影を刻み、きわめて個人的な心象となって現在は思い出される。圏谷はもちろんだが、そこまでたどる周囲のなんでもないブナの森、それを透かして見えていた上越の山々の遠い風景も、懐かしい。まして、今は無人となってしまった土合の駅舎への愛着は、どこの駅よりも強く、深い。(つづく)