
分校は、山奥などの遠隔地で生活する子供たちの学校のことで、その名の通り、分校に対しては本校があった。子供心に、何となくそんな名称に差別的な響きを感じたり、かと思えばそんな辺鄙な土地で学ぶ子供たちに関心を持ったこともあった。
半世紀以上も、それ以上も昔のことで、農家の子供と、「勤め人」と呼ばれる親の子供たちとの間には、それとなく違いが感じられたものだ。「県住」などと呼んだ勤め人を対象にした公営住宅に住む子供たちの方が、当時は垢ぬけて見えたころで、日本が戦後間もない50年から60年代にかけての、まだ高度成長に入る前だった。
牧場へ通う道すがら、そういう古い分教場の跡を毎日のように見ながら通る。山室川の流れる流域には下流から山室、荊口、芝平と3つの集落があり、その距離は10キロの範囲を超えるから、こうした分校が3校もあっても当然かも知れない。今はどこも廃校になってしまっている。
仙丈岳から流れ下る三峰川の上流、長谷の奥にも過疎の集落があり、われわれの世代が子供だったころは、冬季には生徒は家に帰ることができず、学校で寝泊まりをしたと聞いた。平家の落人と言われる「浦」のことで、もう、古くからの住人は殆どいないだろう。
少子高齢化は地方、それも不便な土地ほど深刻化する。過疎化が進む一方だから、一人や二人の少数の子供のために、たとえ分校であっても開校は無理だろう。そうなると、学校へ通わせなければならない子供を持つ親は、山の中の暮らしが必ずしも不満ではなくても街へ出ていくことになる。そうやって高齢者ばかりが残され、そしてやがて集落は消えていく。もう少し散らばった集落を集約化できないかと思うが、長くその土地で暮らした人ほど生まれた土地に拘る。
山を歩いていて、そんな人気のない集落の、分教場跡にたどり着いたことがある。梅の花が咲いていた。運動場らしきは枯草ばかりで、校舎は朽ちかけ、寂れ、それでも窓越しに小さな椅子が乱雑に残っているのが見えた。子供の歌う賑やかな声や、先生の弾くオルガンの音が聞こえていたころを空想しながら、その学び舎を巣立っていったかつての子供たちが、ここを訪れることがたまにはあるのかと思ったりした。
もう少し暖かくなり、木の芽が吹き出したら、行ってみたい廃村がある。そこも平家の落人とか北条時行の言い伝えが残っている。山の中の荒れるに任せた集落の跡、廃校、無住の寺、放置されたままの墓石・・・、目覚めたばかりの自然の中で、どんな姿を見せるのだろうか。廃村の原因となったあの川の流れも。
本日はこの辺で。