Photo by Ume氏
何日か前に「この後の天地長久に、この郷土をずっと託すのだという気持ちも湧いてくる。」などと呟いた。いつもの散歩の折に、ふる里の夜景を眺めながら抱いた思いで、人間一人の存亡などと全く関係なく、この土地は変わらずに続いていくのだという、それは未来への「信頼」という言葉に近い気持ちだった。だから、「託す」というような言い方をしたのだと思う。その信頼が揺れ始めた。
作家であり、釣り師でもあったあの人開高健は、アマゾンなどの自然は一度開発の名で破壊されてしまえば再生は困難だが、アメリカやカナダなどの先進国はそれらを蘇らせることができると言い、確かそのような生まれ変わった自然を「第2のプリミテ(primitive)」という言葉まで使って語っていた。彼にとっては最後の旅となったカナダ行でのことだったと思う。
アマゾンは知らないが、北米大陸の一部、あるいは後進国と蔑称される幾つかの国の自然を垣間見て、作家の指摘は鋭く、正しいと肯けた。貧しく、頼りない国々の罪滅ぼしのような自然保護は、実際は乏しい観光業のためであり、ある国では森林が消滅したことによって風雨による大地の浸食が進む様を目の当たりにした。もう行くことはないが、その後の状況はさらに悪化しているということだ。
ところが、そうした国々の開発の名で自然を破壊し、再生不能にしている真の犯人は、実は先進国であるという。この論は格別耳新しくはないし、多くの人もそう考えている。ところがそれを一歩進めて、根本原因は資本主義そのものにある、と主張する本が出てきた。
久しく環境危機の象徴的な例として問題にされている温暖化、その原因とされる二酸化炭素排出の問題も「人類が使用した化石燃料の何と半分が、冷戦が終結した一九八九年以降のものなの」だとして、産業先進国の責任の大きさを指摘している。それはわずか、30年そこそこのことではないか。
これ以上ここでつまみ食いするよりか、詳しいことは斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)を読んでもらうのが一番間違いがない。読みやすく、分かりやすい。ユウ”ァル・ノア・ハラリにも読ませてみたい一書だ。
普段はあまり読んでいる書名とか著者名はボカしている。外套の下に着ている粗末な時代遅れの褌姿を見せるのが恥ずかしいからだが、今回はそうしないことにした。
東京では桜の開花が話題になっているらしい。釣られて、我慢できず、Ume氏のこの1枚を掲載することにした。実際にここの八重紅枝垂れ桜を目にするのはまだ1ヶ月以上先のことになる。そのころには牧場の仕事は始まっているはずだ。
本日はこの辺で。明日は沈黙します。それにしてもこのセリフを言うのがやたら早い。