14年がここで過ぎた。結構長い時間だったはずだが、果たしてどれほど濃密であったかは分からない。昨日も、通い慣れた山室川に沿った道を走りつつ思っていたことは、当たり前の日常が再び帰ってくるというささやかな喜びと同時に、さらに先へ進むことへの漠とした戸惑いだった。納得と疑問、これからもそれを繰り返していくだろう。
帰りかけたら珍しく、中年の男女二人の登山者に会った。テイ沢から来たのだろうか、二人とも何となく不安そうな顔をして車に道を譲ってくれた。小黒川林道に下る南門のゲートは相変わらず閉じられ施錠されていたが、2個あった鍵は1個だけになっていた。そこを乗り越えてきて構わないのだがもしかすればあの二人は、それを咎められるとでも思ったのかも知れない。そういう登山者がたまにはいる。通り抜けできる旨の案内を置いてあるが、気付かなかったかも知れない、多分そうだろう。
帰り山室川で何カ所か車を停め、少し遊んだ。昨年はHALがいなくなってしばらく上で暮らしていが、そうしたら、朝夕の通勤で通るあの谷間を流れる川のことが、放ったらかしにした里の家以上に気になった。毎日の暮らしの中に、あの谷を通る時間がなくなったら塩気の足りない鮭を食べているようで、牧場の夕暮れに晩酌をしていても物足りず気になった。
もしも、牧場から眺める広大な景色と、それに山室川の清流がなかったら、恐らくはこの仕事をこれほどまで続けることはできなかったと思う。そのくらいに慣れ親しんだ川だ。感謝もしている。
かつての住人に置き去りにされた廃屋は時間の経過の中で、少しづつ自然と一つになろうとしている。変わらないのは山室川の流れで、大水でもない限り無数の枝沢から清らかな水を集め、いつの季節も透明な流れは途切れることがない。やがて今年も、季節とともに変わりゆくあの谷を眺めながら、行き来する日々が始まる。
上に向かう時、しばらくそこにいる間、そしてまた同じ道を帰って来る時、もっと具体的なことをたくさん考えたり、感じたりしたはずだ。にもかかわらず、そうしたことが1日経っただけで遠くへ行ってしまう。というか、少しは感情の暴走へ抑制が効くということだろう。事実きょうは、最初に呟いたことを殆ど削除して、またやり直した。
本日はこの辺で。