二百十日が過ぎて9月になり、今朝は野分を思わせる風が吹いている。人気の絶えたキャンプ場や目の前に見えてる風景にも、そして灰色がかった空の色にも、親しくできなかった季節が去っていったことを感じさせている。コナシの葉が黄色味を帯び、ススキの白い穂先が目立つようになった。小屋の前の薄日の射す草むらにリンドウに似た紫の花が風に揺れながら咲いている。
山の暮らしは上手くいっているかと、久しく沙汰のなかった友人から問い合わせがあり、まあ、大過なく日々は過ぎていくと答えておいたが、実際、ここでの暮らしはそんな感じだ。単調で、時間の経過は早いかも知れないが、それでいてあまり退屈に思うことはないし、人恋しくなることもない。山の中の自然に漬かっているということが一番大きいのだろうか。
昨日は一日中草を刈っていた。しかし、その間にはいろいろな物を見、いろいろなことを考えたり、思い出したりする。いつもながら、内容は他愛ない馬鹿げたことが多い。
また、牛の様子が普段と変わらなければ安心するし、草が減ってくれば心配する。牧柵を直したり、暴れん坊の和牛を少しでも懐かせることができればそれで満足する。鹿に腹を立て、思うように身体を動かせなかったり、物忘れのひどさに自分を叱り、吠え、そんな些細なことが重なり一日になるわけで、それで不足ないと思っている。
外から帰って小屋に落ち着けば、今度は家事が待っている。このごろはあまり食べることにも以前ほど熱心になれず、どうしても野菜不足を感じながら、あまり変わり映えのしない食材、主に魚を食べている。レタス、キャベツ、タマネギ、ニンジン、ピーマン等々と、野菜がないわけではない。しかし、麺類もそうだが、こうした物になぜか食指が動かず、そのまま食欲の秋を迎えることになが、さて、どうなるだろう。
飲む方のことは相も変わらず、日本酒の熱燗がますます美味くなり、冷えたビールと一緒になって妄想を招いてくれてる。
懐かしい言葉に出会った。「ひこばえ」、甥っ子のSが送ってくれた本を読んでいて、目が止まった。「樹木の切り株や根元から群がり生える若芽。又生え(大辞林)」のことだ。こういう樹木の生命の勁さを、小さいころから見て、感じてきたのに、いつの間にか忘れかけていた。Sとこの本のお蔭である。
森については、単に情緒的な目でしか見てこなかったかも知れないと、遅ればせながら、環境とか防災といった違った観点からも見てみたいと読んでいる。
本日はこの辺で。