穏やかな冬の日、縁側に腰を下ろし日向ぼこをしていた。午前10時、この時間だと、天気が良ければ外の方が暖かい。ひと夏の威勢を放った雑草が今は枯れ果て、みすぼらしさが目に付いた。
きょうは柿の木の一番高い枝先に1羽のムクドリが来ている。青空を背景に細い枝の上にまるで浮かぶようにみえるその姿は、あっちはモズだが、宮本武蔵の描いた有名な「古木鳴鵙(めいげき)図」を連想した。
きょうの写真は散歩の途中、二つの集落を分かつ山付きの峠越えをした後で撮った伊那谷の風景である。ごく一部でしかなく、写真では分からないが、この伊那盆地を造り、今もその低部を流れる天竜川の堤防へ散歩の最後は下る。
ここの夜景が気に入って、昨年までの冬ごもりは専ら夜間ばかり歩いていたが、畑や森、他所の集落の端などとはいえ、今の時代にそんな所を夜なよな歩いていたら不審者扱いされて警察にでも通報されると注意され、それで止めるようにした。
散歩は気分転換であり、暇つぶしである。仕事柄、冬ごもりの間でも、歩きたいという単純な欲求が湧いてきて、それに従っている。
また、年齢を重ねると、この程度の体力や気力ならまだ保持しているゾ、ということをどこかで確かめてみたくなる。自己診断に近い健康診断結果を得て安堵するようなものだ。
頭の方は日常の中で嫌でも何かと気付かされるが、特に物をよく落とすようになり、万有引力の無慈悲さを嘆き、腹を立てることが増えてくる。それと、やはり時の経過を早く感ずるようになる。
考えてみれば、われわれには殆ど「今」はない。過去か未来で、「今」はたった1秒すらもないだろう。そういう不思議な時間の中で、「今」の速さを少しでも抑制し、その一瞬に退屈してみたくなって「座る」ということを始めた。
だから、何か高尚なことを考えようとか、精神によい影響を与えようかとか、そんな大それたことを考えて始めたわけではない。ただ、現在も一日もかかさずに続いているということは、「心のラジオ体操」くらいにはなっているのだと思う。
時には気が乗らなくて中断したくなる日もあるが、しかしそれをしてしまうと、その悪い癖がついてしまうようで、とにかく1本の線香が燃え尽きるまでは続けるようにしている。
「心のラジオ体操」、冬ごもりの今、悪くない。
これから入笠へ行く、本日はこの辺で。