Photo by かんと氏(再録)
雨が降っている。やはり天気は下り坂のようだ。それでも気温はそれほど低くないようだし、微妙なところだが、恐らく上は雨だろう。
ふたご座流星群は見られなかったし、かんとさんも来なかった。赤羽さんはベランダから眺めると便りをくれたけれど、さてどうだっただろうか。
流れ星と言うのは、太陽の周りを公転する地球が時速10万キロ以上の高速で星のかけらだか、ゴミ(ちり)の浮遊している空間に飛び込んでいった時に起こる現象ではないだろうか。
彗星や小惑星が残した微細な氷の粒などが地球の大気へ「突入」してなどと解説されるが、実態はむしろ、そうした残留物の浮遊する宇宙空間へ超高速で進入していく惑星が地球であり、流れ星をつくる主体はこっちではないか、と言いたくなったりするのだが。
この宇宙に生き物が誕生するには水やアミノ酸がどうたれこうたれとか、われわれレベル、それがどの程度かはさておき、知的生命が誕生するにはああだこうだと、聞いたり読んだりした。子供のころから、天体望遠鏡で月のクレーターを見たいとまさに熱望したが、その夢がかなったのはずっと後のことだった。
そして今、もともと流れ星に対してはあまり興味がなかったが、もう大方そういうことに対する関心は失せてしまった。昨夜も、一昨夜も一応ふたご座の方向の夜空を眺めてはみたが、流れ星には出会えなかった。
そう言いながらも夜の散歩に出て、冬の星空を眺めて思うことは、われわれが暮らす宇宙はなぜこれほどまで広くなければいけなかったのか、ということだ。また、われわれの生命は(おそらく)1回性であり、その寿命は100年にも満たないというのに、陽子は10の33乗年もの寿命を持ち、宇宙は無限とも思えるような時間を持っているらしいということへの疑問だ。
自分が住む場所のことは知りたい。できれば、探訪してみたい。しかしその隣の星でさえあまりにも遠く、光の速度でも万年どころか億年の単位に至る星、天体まである。それどころか、このごろは複数の宇宙の存在すら語られる。
われわれが生まれてくるには、なぜこんな途方もない世界でなければならなかったのか、つくづくそう思う。神話や宗教が説明するようなもっと分かりやすい世界では、なぜいけなかったのか。神がいた方が良かったかも知れないと、そんな事を今さらながら、ふと、考えたりする。
本日はこの辺で。