佐藤が書き残した「寿府三国会議秘録」は日記体形式で、昭和2年3月25日(金)から同年8月4日までジュネーブ軍縮会議の日々の出来事、感想を記している。
4月14日の日記には、日本での訓令案審議で、小林首席(小林躋造海軍中将)の質問に対して次長と原少将のシドロモドロの答弁に対し、小林首席は最後に顔面紅を潮し色激しく「失礼なる申分ながら軍令部には国防所要兵力に関する確たる信念なしと認むる外なし」と止めを刺せば、原少将酒蛙酒蛙(しゃあしゃあ)として「ああそーですね」とうそぶく、と記している。ジュネーブに旅立つ前の日本での準備段階での話である。
全権一行はジュネーブに船で向かったが、小林中将と原少将の対立を憂いた佐藤は、原少将と数人で船上のテラスで歓談中の出来事を日記で次のように記している。
「余は多少酒の力に任せたる嫌ありしも海軍部の結束上痼疾なる小林、原反目にメスを加うるはこの時なりと感じ、若し小林、原両閣下の間に従来の如き扞格を見る場合には原少将を海中に投棄することに海軍随員申合わせ済みなりと語る。聊か云い過ぎたりと見え少将の顔色変ず」とある。
原少将の目の前で、面と向かって「あんたを海に投げ捨てるよ」と言っているわけで、さすがの原少将も顔色が変わった。このとき佐藤は海軍中佐であるから、中佐が少将に向かって、思い切った事を言ったものだが、佐藤中佐はそれほど真剣に国防の事を考えていたのである。
「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社) の佐藤市郎プロフィール(佐藤多満・信太郎編)には、上司に誤りがあれば遠慮なく直言していたので、傍で見ている同僚は「あんなこと言ったら辞めさせるだろうに、家族の多い自分には、とてもできないことだ」と言っていたそうだ(佐藤多満は市郎の夫人、信太郎は長男)。
4月14日の日記には、日本での訓令案審議で、小林首席(小林躋造海軍中将)の質問に対して次長と原少将のシドロモドロの答弁に対し、小林首席は最後に顔面紅を潮し色激しく「失礼なる申分ながら軍令部には国防所要兵力に関する確たる信念なしと認むる外なし」と止めを刺せば、原少将酒蛙酒蛙(しゃあしゃあ)として「ああそーですね」とうそぶく、と記している。ジュネーブに旅立つ前の日本での準備段階での話である。
全権一行はジュネーブに船で向かったが、小林中将と原少将の対立を憂いた佐藤は、原少将と数人で船上のテラスで歓談中の出来事を日記で次のように記している。
「余は多少酒の力に任せたる嫌ありしも海軍部の結束上痼疾なる小林、原反目にメスを加うるはこの時なりと感じ、若し小林、原両閣下の間に従来の如き扞格を見る場合には原少将を海中に投棄することに海軍随員申合わせ済みなりと語る。聊か云い過ぎたりと見え少将の顔色変ず」とある。
原少将の目の前で、面と向かって「あんたを海に投げ捨てるよ」と言っているわけで、さすがの原少将も顔色が変わった。このとき佐藤は海軍中佐であるから、中佐が少将に向かって、思い切った事を言ったものだが、佐藤中佐はそれほど真剣に国防の事を考えていたのである。
「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社) の佐藤市郎プロフィール(佐藤多満・信太郎編)には、上司に誤りがあれば遠慮なく直言していたので、傍で見ている同僚は「あんなこと言ったら辞めさせるだろうに、家族の多い自分には、とてもできないことだ」と言っていたそうだ(佐藤多満は市郎の夫人、信太郎は長男)。