陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

6.佐藤市郎海軍中将(6) このあたりから海軍は条約派と艦隊派に分かれ対立を始めた

2006年04月29日 | 佐藤市郎海軍中将
 そもそも軍縮会議はどのような経過を辿ったのか。これを説明しないと佐藤市郎の海軍での立場が分からない。大正10年のワシントン会議で英・米・日の主力艦の比率が5・5・3という屈辱的比率を押し付けられ煮え湯を飲まされた日本。昭和二年のジュネーブ軍縮会議は失敗に終わり調印できなかった。
 次に補助艦比率を決める昭和5年の第一次ロンドン軍縮会議では、(1)巡洋艦以下の補助艦艇は対米7割、(2)特に大型巡洋艦は7割絶対確保、(3)潜水艦は絶対量78000トン保有の3大原則を主張した。
 すったもんだの末昭和5年4月22日に調印に漕ぎ着けたが、結果的に総括排水量は対米69.75%を獲得したが大型巡洋艦6割、潜水艦にいたっては52000トンに押さえられてしまった。
 この条約に大いなる不満を持った海軍軍令部の加藤寛治部長と末次信正次長は条約調印でロンドンにいて不在の財部海軍大臣の代わりに海軍省をあずかる山梨勝之進次官と堀悌吉軍務局長と対立し、統帥権干犯問題を持ち出し、後に政界を揺らがすまでに至った。
 そもそも加藤寛治部長と末次信正次長はワシントン会議のときに、煮え湯を飲まされた当事者だった。ワシントン会議では加藤寛治は首席随員、末次信正は随員として出席した。そこでこの二人は悪戦苦闘の末アメリカに苦汁を舐めさせられた。だからこそ第一次ロンドン軍縮会議の結果に大いなる不満を持った。
 このあたりから海軍は条約派と艦隊派に分かれ対立を始めた。条約派は、日本の経済力を考えれば軍縮競争に走るよりは、ワシントン条約やロンドン条約に対して不本意ではあるが、これを認めた方が良いという立場をとる。
 これに対して加藤など軍令部を総本山とする艦隊派は、日本海軍の艦隊の増強を主張するもので、第一次ロンドン条約は調印されたが、これを不満とした。
 後に艦隊派が優位を占め山梨勝之進次官は現役を追われ、山本五十六が昭和九年、第二次ロンドン軍縮会議予備交渉の代表としてロンドンに行っているときに、堀悌吉軍務局長も予備役にされた。堀と同期生で仲の良かった山本は、ロンドンでこれを知りカンカンに怒ったという。山本の親友の堀は兵学校を首席で卒業した海軍のホープだった。このように第一次ロンドン軍縮会議で活躍した人は、後に左遷させられた。