三原氏も時々、花谷師団長の碁の相手を命じられた。機を見るに敏な三原氏は、碁の相手をしていて、雲行きが怪しくなって危険と感じられたという。
そうなったら、いち早くその場をずらかり、雲隠れして、ほとぼりが醒めるまでは、決して現われなかった。お陰で難をのがれた一人であった。
「昭和史の謎を追う・上」(文春文庫)によると、著者の秦郁彦氏が東大教養学部在学中の1953年から翌年にかけて、柳条湖事件の解明のため、旧軍人からヒアリング作業を行なった。
そのとき、当時東京・代々木に住んでいた花谷正にヒアリングを行なった。秦氏はこの事件が関東軍の陰謀であると確信していたので、計画の実行と細部を聞き出すことだった。
最初は口が重かった花谷も少しづつ語り始め、前後八回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。
それから三年後の1956年秋、河出書房の月刊誌「知性」が別冊の「秘められた昭和史」を企画した。
そのとき、秦氏は花谷談を整理してまとめ、補充ヒアリングと検閲を受けたのち、花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。当時、かなりの反響が出た。
「戦死」(文春文庫)によると、昭和18年10月、中国の第一軍参謀長だった花谷中将はビルマの第五十五師団長に任命された。
アキャブの飛行場に到着の時は、工兵連隊長・村山誠一中佐、師団次級副官・大西幸一大尉、その他多くの将校が迎えに出た。
飛行場で花谷師団長は出迎えの人々のあいさつを受けていた。村山工兵連隊長も進み出て、氏名職階を名乗った。突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた。
「貴様の服装はなんだ。それでも連隊長か」。村山連隊長は工兵を率いるだけに粗暴なところもあり、服装もかまわなかった。
その夜の師団長歓迎の酒宴の時、村山中佐は裸になり、下帯にさした軍刀を抜いて、花谷師団長を斬ろうとして、止められた。
その後、村山中佐は中村獣医部長に語った。「花谷が今度俺をなぐったら、その場で射殺してやる」。
「戦死」(文春文庫)によると、「ハ」号作戦は楯作命第五七号・第五十五師団命令として昭和19年2月1日に発令された。
「ハ」号作戦はインパール作戦の支援作戦として実施された。インパール作戦は、1月7日に大本営が許可し、インドのインパールに進撃して、その付近の要地を占領するという作戦だった。
インパール作戦を強引に推進したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将であった。
「ハ」号作戦の目的はアラカン地区から日本軍がインドに積極的に攻勢に出ると見せて、敵の連合軍の兵力をこの方面に引き付けて、インパールの主作戦を容易にさせることだった。
そうなったら、いち早くその場をずらかり、雲隠れして、ほとぼりが醒めるまでは、決して現われなかった。お陰で難をのがれた一人であった。
「昭和史の謎を追う・上」(文春文庫)によると、著者の秦郁彦氏が東大教養学部在学中の1953年から翌年にかけて、柳条湖事件の解明のため、旧軍人からヒアリング作業を行なった。
そのとき、当時東京・代々木に住んでいた花谷正にヒアリングを行なった。秦氏はこの事件が関東軍の陰謀であると確信していたので、計画の実行と細部を聞き出すことだった。
最初は口が重かった花谷も少しづつ語り始め、前後八回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。
それから三年後の1956年秋、河出書房の月刊誌「知性」が別冊の「秘められた昭和史」を企画した。
そのとき、秦氏は花谷談を整理してまとめ、補充ヒアリングと検閲を受けたのち、花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。当時、かなりの反響が出た。
「戦死」(文春文庫)によると、昭和18年10月、中国の第一軍参謀長だった花谷中将はビルマの第五十五師団長に任命された。
アキャブの飛行場に到着の時は、工兵連隊長・村山誠一中佐、師団次級副官・大西幸一大尉、その他多くの将校が迎えに出た。
飛行場で花谷師団長は出迎えの人々のあいさつを受けていた。村山工兵連隊長も進み出て、氏名職階を名乗った。突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた。
「貴様の服装はなんだ。それでも連隊長か」。村山連隊長は工兵を率いるだけに粗暴なところもあり、服装もかまわなかった。
その夜の師団長歓迎の酒宴の時、村山中佐は裸になり、下帯にさした軍刀を抜いて、花谷師団長を斬ろうとして、止められた。
その後、村山中佐は中村獣医部長に語った。「花谷が今度俺をなぐったら、その場で射殺してやる」。
「戦死」(文春文庫)によると、「ハ」号作戦は楯作命第五七号・第五十五師団命令として昭和19年2月1日に発令された。
「ハ」号作戦はインパール作戦の支援作戦として実施された。インパール作戦は、1月7日に大本営が許可し、インドのインパールに進撃して、その付近の要地を占領するという作戦だった。
インパール作戦を強引に推進したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将であった。
「ハ」号作戦の目的はアラカン地区から日本軍がインドに積極的に攻勢に出ると見せて、敵の連合軍の兵力をこの方面に引き付けて、インパールの主作戦を容易にさせることだった。