富永人事局長は「昨夜は少しひどすぎたなあ、大臣は作戦部長の気持ちは分かるが、あれでは困る、と言っていた。軍法会議などということには、俺は反対しておいたが、いずれにしても転出してもらわねばなるまい」と言った。
田中作戦部長は「ホー、軍法会議、結構だ、大いに争おう」と怒って答えたが、「転出のことは昨夜総長にも解職方をお願いしておいた。だが、この際、軍職を退かしてもらおうと考えたのだが」と告げた。
富永人事局長は「それもよかろうが、将官の自発的引退は、病気でない限り、勅許がないというのが慣例だ」と答えた。
田中作戦部長は「それなら病気診断を、軍医に書いてもらおう」と言った。
すると富永人事局長は「だが、君の体で、病気といえようか、仮に引退しても、すぐ召集ということになる」と答えて、「君のあとには、関東軍から綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)というのが、総長の希望だ」と続けた。
田中作戦部長は、杉山参謀総長から、重謹慎十五日の処分を言い渡され、十二月七日付で南方総軍司令部付に発令された。
その後、田中中将は、牟田口廉也中将の後任として、菊兵団(第十八師団)の師団長になることが予定されていると富永人事局長が教えてくれた。
田中中将は昭和十八年三月十八日、第十八師団長補職の命令を受けた。この三月十八日は田中中将の五十歳の誕生日だった。十八年と十八日と十八師団、よし俺の運命はここだったのかと、田中中将は確信を固めた。
田中中将はその後、第十八師団長として勇敢に戦い、ビルマ方面軍参謀長に就任。その後内地の軍司令官要員になり、内地へ飛行機で帰還中に墜落、重症でサイゴン陸軍病院入院中に終戦。戦後、昭和五十一年九月二十四日に死去した。八十三歳だった。
「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、昭和十七年四月三十日の総選挙は「大東亜戦争完遂」のため、政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会の確立を目的としていた。
東條はドイツのナチス流の一国一党ばりに日本の議会を翼賛議員一色にするつもりだった。
代議士・中野正剛(五十六歳)が率いる東方会に対しても誘いをかけたが、中野は「このようなことは憲法の本義に反する」と語気鋭く拒絶した。
選挙が始まると翼賛議員の看板を掲げない候補者に対する陰険、卑劣な妨害や選挙干渉をおこなわれた。史上悪名高い明治二十五年、時の内相・品川弥二郎が行った選挙大干渉と並ぶものだった。
特に東方会選出の候補者に対する弾圧は露骨だった。その結果は前代議士十二名を含む四十七名の全候補者のうち、当選したのはわずかに六名に過ぎなかった。
これに対し翼賛議員は、衆議院の定員百六十六名と同数の候補者を立てた。政府は彼らにあらゆる援助を行った。
当時、陸軍省兵務局長だった田中隆吉少将は、戦後になって「当時翼賛候補者に対しては一人当たり五千円を軍事機密費から支給した」と暴露している。
「生きている右翼」(永松浅造・一ツ橋書店)によると、当時、選挙が終わり、議会が召集された日に、著者の永松浅造(政治記者)が、翼賛議員の控え室へ立ち寄っていると、そこへ中野正剛がびっこを引きながら入ってきた。
中野が憲政会にいたとき仲の良かった議員が「中野君、君は欲がないね。推薦議員(翼賛議員)で出たら、東方会からも二、三十名は大丈夫だったかもしれないよ。今度の議会は戦争が続く限り、解散はないし。惜しいことをしたもんだ」と言った。
すると中野は「わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない」と、吐き出すように言って、さっさと出て行ったという。
昭和十七年十一月十日、代議士・中野正剛は母校の早稲田大学大隈講堂で学生を前に「天下一人を以って興る」の演題で東條首相を批判する大演説を行った。
中野正剛は福岡県福岡市出身で明治四十二年早稲田大学政治経済学科を卒業。緒方竹虎と出会い意気投合した。卒業後、東京日日新聞を経て朝日新聞に入社した。大正二年三宅雪嶺の娘多美子と結婚。
朝日新聞を退職後、大正六年衆議院議員に立候補するも落選。だが大正九年の総選挙で当選、以後八回当選する。以後各政党を渡り歩いた。
大正十五年、中野正剛はびっこだった左足の手術をした結果、医師が血管の処置を誤り、左足を大腿下部から切断という結果になった。以来中野の左足は義足となり、常に竹のステッキをついて歩くようになった。
昭和十七年十二月二十一日、中野正剛は、今度は日比谷公会堂の壇上に立ち、延々四時間もの東條批判の大演説を行った。
田中作戦部長は「ホー、軍法会議、結構だ、大いに争おう」と怒って答えたが、「転出のことは昨夜総長にも解職方をお願いしておいた。だが、この際、軍職を退かしてもらおうと考えたのだが」と告げた。
富永人事局長は「それもよかろうが、将官の自発的引退は、病気でない限り、勅許がないというのが慣例だ」と答えた。
田中作戦部長は「それなら病気診断を、軍医に書いてもらおう」と言った。
すると富永人事局長は「だが、君の体で、病気といえようか、仮に引退しても、すぐ召集ということになる」と答えて、「君のあとには、関東軍から綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)というのが、総長の希望だ」と続けた。
田中作戦部長は、杉山参謀総長から、重謹慎十五日の処分を言い渡され、十二月七日付で南方総軍司令部付に発令された。
その後、田中中将は、牟田口廉也中将の後任として、菊兵団(第十八師団)の師団長になることが予定されていると富永人事局長が教えてくれた。
田中中将は昭和十八年三月十八日、第十八師団長補職の命令を受けた。この三月十八日は田中中将の五十歳の誕生日だった。十八年と十八日と十八師団、よし俺の運命はここだったのかと、田中中将は確信を固めた。
田中中将はその後、第十八師団長として勇敢に戦い、ビルマ方面軍参謀長に就任。その後内地の軍司令官要員になり、内地へ飛行機で帰還中に墜落、重症でサイゴン陸軍病院入院中に終戦。戦後、昭和五十一年九月二十四日に死去した。八十三歳だった。
「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、昭和十七年四月三十日の総選挙は「大東亜戦争完遂」のため、政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会の確立を目的としていた。
東條はドイツのナチス流の一国一党ばりに日本の議会を翼賛議員一色にするつもりだった。
代議士・中野正剛(五十六歳)が率いる東方会に対しても誘いをかけたが、中野は「このようなことは憲法の本義に反する」と語気鋭く拒絶した。
選挙が始まると翼賛議員の看板を掲げない候補者に対する陰険、卑劣な妨害や選挙干渉をおこなわれた。史上悪名高い明治二十五年、時の内相・品川弥二郎が行った選挙大干渉と並ぶものだった。
特に東方会選出の候補者に対する弾圧は露骨だった。その結果は前代議士十二名を含む四十七名の全候補者のうち、当選したのはわずかに六名に過ぎなかった。
これに対し翼賛議員は、衆議院の定員百六十六名と同数の候補者を立てた。政府は彼らにあらゆる援助を行った。
当時、陸軍省兵務局長だった田中隆吉少将は、戦後になって「当時翼賛候補者に対しては一人当たり五千円を軍事機密費から支給した」と暴露している。
「生きている右翼」(永松浅造・一ツ橋書店)によると、当時、選挙が終わり、議会が召集された日に、著者の永松浅造(政治記者)が、翼賛議員の控え室へ立ち寄っていると、そこへ中野正剛がびっこを引きながら入ってきた。
中野が憲政会にいたとき仲の良かった議員が「中野君、君は欲がないね。推薦議員(翼賛議員)で出たら、東方会からも二、三十名は大丈夫だったかもしれないよ。今度の議会は戦争が続く限り、解散はないし。惜しいことをしたもんだ」と言った。
すると中野は「わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない」と、吐き出すように言って、さっさと出て行ったという。
昭和十七年十一月十日、代議士・中野正剛は母校の早稲田大学大隈講堂で学生を前に「天下一人を以って興る」の演題で東條首相を批判する大演説を行った。
中野正剛は福岡県福岡市出身で明治四十二年早稲田大学政治経済学科を卒業。緒方竹虎と出会い意気投合した。卒業後、東京日日新聞を経て朝日新聞に入社した。大正二年三宅雪嶺の娘多美子と結婚。
朝日新聞を退職後、大正六年衆議院議員に立候補するも落選。だが大正九年の総選挙で当選、以後八回当選する。以後各政党を渡り歩いた。
大正十五年、中野正剛はびっこだった左足の手術をした結果、医師が血管の処置を誤り、左足を大腿下部から切断という結果になった。以来中野の左足は義足となり、常に竹のステッキをついて歩くようになった。
昭和十七年十二月二十一日、中野正剛は、今度は日比谷公会堂の壇上に立ち、延々四時間もの東條批判の大演説を行った。