今村中尉は仙台に帰る前に校長以下教官の私宅を挨拶回りした。そのとき、柳川平助教官のところでは、「聞いておきたいことがある」と、座敷に通された。
今村中尉は「私は実力は無く、とくに吉川平野では、ご覧のような醜態を暴露しましたのに、教官方々が、どうしてこんなにしていただいたのか不思議でならず、恥ずかしさを感じています」と言った。
すると、柳川少佐は次の様に言った。
「実はそのことで聞いておきたいことがあるのだ。吉川でのあの日の君の決心は、あれで良かったのだが、あとの戦況の進め方の都合で、吉岡教官がわざとあのように指導したものだ。こっちの内輪を知っていない君が、ああ頑張ったのは無理が無い。が、確かに君は興奮しすぎて言葉が荒くなった。それであとはどうなるかと、教官すべてが懸念していたところ、あの翌日すっかり平静にかえった。やっぱり、悪かったと自省したのかい……」。
今村中尉は「いや、私は、自暴自棄になってしまい、『落第させられてもかまわない。徹底的に吉岡教官と張り合う』と捨て鉢の気持ちでおりました」と切り出し、北白川宮殿下から『君は敵の北軍と戦っているのではなく、吉岡試験官を敵としている。そんなことでは戦には勝てない』と注意されたことを語った。
柳川少佐は「そうか、そりゃよかったな。実は君を北軍司令官に当てるとき、『相談相手をなくして、困らせてやれ』ということで、わざと殿下を君の参謀長にしたのだ。それじゃ困るどころか、殿下に助けられてしまったのだ……」などと語った。
今村中尉は陸軍大学校を卒業後、第四師団歩兵第四連隊第十中隊長を命ぜられた。当時の陸軍は、将校の進級が停滞しており、少尉三年、中尉七年を勤めなければ、大尉に進級できなかった。
それで、窮余の一策として、中尉の古参者には「大尉職務心得」とか、「中隊長職務心得」とかの辞令を渡し、俸給は中尉のものに小額を増し、大尉並みに取り扱い、一時を糊塗していた。今村中尉はこの「中隊長職務心得」を仰せつけられたのだ。
仙台で中隊長を務める今村中尉の許に、東京の母から縁談がもちこまれた。今村中尉は母親に「私はお見合いで妻を選ぶ気はありません。お母さんが適当と見立てた人と縁組します。健康であれば、その写真を送ってくださることもお断りします」と返事を出した。
母はさらに、今村中尉に見合いをすすめてみたが、返事が無いので、遂に一存で嫁を選び、結納を済ませてしまった。
相手は金沢に住む千田登文の三女、銀子、十九歳だった。銀子の兄の一人は今村中尉と陸軍大学校同期の木村三郎大尉(陸士一八・陸大二七)、姉は参謀本部勤務の中村孝太郎少佐(陸士一三・陸大二一・後の陸軍大将・陸軍大臣)の妻だった。
母からの今村中尉への手紙には「兄弟がみな立派な体格ですから、その人もきっと健康だと思います」とあった。母も、銀子には会わずに、婚約を取り決めた。
大正五年八月、今村均中尉は陸軍省軍務局歩兵課勤務となった。三十歳のときである。十一月、今村中尉は九州で行われた陸軍大演習に参加の帰途、銀子の兄、木村三郎大尉の誘いをことわりきれず、金沢の千田家に一泊することになった。
父親に付き添われ、今村中尉の前に三つ指をついてしとやかに頭を下げた銀子を見て、彼は愕然とした。その印象を今村中尉は次の様に述べている。
「なんと柳のように細い弱々しいからだの人か……。なるほど、顔は美しい。が、私は健康美には魅せられることはあっても、顔面美などにはさっぱり興味を持たない」。
この夜、今村中尉は思い悩んで、一睡もできなかった。だが、夜が明ける頃、ようやく、次の様に心を決めた。
「妻に求める唯一つの条件は『健康』であったのに、こうも弱々しく見える人と婚約してしまったとは……。しかし、見合いをして、慎重に相手を選べという母の再三の言葉を退けたのは自分なのだ。今となって、体格を理由に婚約を解消するなど、そんな不徳義なことは絶対にできない。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るほかは無い…」。
大正六年、今村中尉は結婚した。銀子の言葉遣いや態度はしとやかで、容姿は美しく、今村の母はこの従順な嫁に満足して、心から愛した。
だが、今村中尉はいつまでも妻への愛情が湧かなかった。従って家庭生活を楽しむ気持ちにならず、役所の書類を持ち帰ったり、読書で時間をつぶす毎日で、銀子に声をかけることも少ない。
慎み深い銀子はひとことの不満も述べなかったが、次第に淋しさが顔に現れるようになった。「この妻のどこに落ち度があろうか。すべて私の軽率が招いた結果だ」と今村中尉は自分を責めた。
そしてなんとか妻を慰めようと努めてみたが、ただ不自然さがきわだつばかりだった。今村中尉の母は、いっそう銀子を愛して、嫁、姑のむつまじさは評判にはるほどであったが、それで銀子の心が満たされるわけもなかった。
今村中尉は「私は実力は無く、とくに吉川平野では、ご覧のような醜態を暴露しましたのに、教官方々が、どうしてこんなにしていただいたのか不思議でならず、恥ずかしさを感じています」と言った。
すると、柳川少佐は次の様に言った。
「実はそのことで聞いておきたいことがあるのだ。吉川でのあの日の君の決心は、あれで良かったのだが、あとの戦況の進め方の都合で、吉岡教官がわざとあのように指導したものだ。こっちの内輪を知っていない君が、ああ頑張ったのは無理が無い。が、確かに君は興奮しすぎて言葉が荒くなった。それであとはどうなるかと、教官すべてが懸念していたところ、あの翌日すっかり平静にかえった。やっぱり、悪かったと自省したのかい……」。
今村中尉は「いや、私は、自暴自棄になってしまい、『落第させられてもかまわない。徹底的に吉岡教官と張り合う』と捨て鉢の気持ちでおりました」と切り出し、北白川宮殿下から『君は敵の北軍と戦っているのではなく、吉岡試験官を敵としている。そんなことでは戦には勝てない』と注意されたことを語った。
柳川少佐は「そうか、そりゃよかったな。実は君を北軍司令官に当てるとき、『相談相手をなくして、困らせてやれ』ということで、わざと殿下を君の参謀長にしたのだ。それじゃ困るどころか、殿下に助けられてしまったのだ……」などと語った。
今村中尉は陸軍大学校を卒業後、第四師団歩兵第四連隊第十中隊長を命ぜられた。当時の陸軍は、将校の進級が停滞しており、少尉三年、中尉七年を勤めなければ、大尉に進級できなかった。
それで、窮余の一策として、中尉の古参者には「大尉職務心得」とか、「中隊長職務心得」とかの辞令を渡し、俸給は中尉のものに小額を増し、大尉並みに取り扱い、一時を糊塗していた。今村中尉はこの「中隊長職務心得」を仰せつけられたのだ。
仙台で中隊長を務める今村中尉の許に、東京の母から縁談がもちこまれた。今村中尉は母親に「私はお見合いで妻を選ぶ気はありません。お母さんが適当と見立てた人と縁組します。健康であれば、その写真を送ってくださることもお断りします」と返事を出した。
母はさらに、今村中尉に見合いをすすめてみたが、返事が無いので、遂に一存で嫁を選び、結納を済ませてしまった。
相手は金沢に住む千田登文の三女、銀子、十九歳だった。銀子の兄の一人は今村中尉と陸軍大学校同期の木村三郎大尉(陸士一八・陸大二七)、姉は参謀本部勤務の中村孝太郎少佐(陸士一三・陸大二一・後の陸軍大将・陸軍大臣)の妻だった。
母からの今村中尉への手紙には「兄弟がみな立派な体格ですから、その人もきっと健康だと思います」とあった。母も、銀子には会わずに、婚約を取り決めた。
大正五年八月、今村均中尉は陸軍省軍務局歩兵課勤務となった。三十歳のときである。十一月、今村中尉は九州で行われた陸軍大演習に参加の帰途、銀子の兄、木村三郎大尉の誘いをことわりきれず、金沢の千田家に一泊することになった。
父親に付き添われ、今村中尉の前に三つ指をついてしとやかに頭を下げた銀子を見て、彼は愕然とした。その印象を今村中尉は次の様に述べている。
「なんと柳のように細い弱々しいからだの人か……。なるほど、顔は美しい。が、私は健康美には魅せられることはあっても、顔面美などにはさっぱり興味を持たない」。
この夜、今村中尉は思い悩んで、一睡もできなかった。だが、夜が明ける頃、ようやく、次の様に心を決めた。
「妻に求める唯一つの条件は『健康』であったのに、こうも弱々しく見える人と婚約してしまったとは……。しかし、見合いをして、慎重に相手を選べという母の再三の言葉を退けたのは自分なのだ。今となって、体格を理由に婚約を解消するなど、そんな不徳義なことは絶対にできない。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るほかは無い…」。
大正六年、今村中尉は結婚した。銀子の言葉遣いや態度はしとやかで、容姿は美しく、今村の母はこの従順な嫁に満足して、心から愛した。
だが、今村中尉はいつまでも妻への愛情が湧かなかった。従って家庭生活を楽しむ気持ちにならず、役所の書類を持ち帰ったり、読書で時間をつぶす毎日で、銀子に声をかけることも少ない。
慎み深い銀子はひとことの不満も述べなかったが、次第に淋しさが顔に現れるようになった。「この妻のどこに落ち度があろうか。すべて私の軽率が招いた結果だ」と今村中尉は自分を責めた。
そしてなんとか妻を慰めようと努めてみたが、ただ不自然さがきわだつばかりだった。今村中尉の母は、いっそう銀子を愛して、嫁、姑のむつまじさは評判にはるほどであったが、それで銀子の心が満たされるわけもなかった。