「聖断~天皇と鈴木貫太郎」(半藤一利・文芸春秋)によると、鈴木貫太郎は父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名)、母・きよの長男として慶応三年に生まれた。由哲には四男四女があった。
鈴木為輔は、安政年間に老中を勤めた久世大和守広周の警護役であったが、元治元年に代官として泉州(和泉国)に移った。
代官の鈴木為輔は、その寛仁さで領民に慕われた。あるとき、農村を巡察中に、百姓が肥桶をひっくり返し、代官である鈴木為輔の衣服を汚すという事件が起きた。
当然にお手討ちを覚悟した百姓に、鈴木為輔は、かたわらの小川で衣服を洗い、「これできれいになった。心配せずともよい」と笑って言ったという。
貫太郎の母、きよは、栃木県佐野の修験道場総本山の住職の三女で、躾は厳しく教育熱心であった。その甲斐あって、子は例外なく英才であった。
母の教育により長男、貫太郎は明治という折目正しい時代においても特に折目正しい男として育った。親孝行で、礼儀正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりしていた。
貫太郎は外へ出て菓子か何かを貰ってくると、「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、その包みをそのまま母親に差し出した。母が「お前がお上がり」と言っても、母が手をつけないかぎり決して食べなかったという。
貫太郎は幼い時から心の中に則を定め、それを超えようとはしない律気を持っていた。己に対しては厳しく、親切で優しかった。
だが鈴木貫太郎は後に、海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた。それほど激しい闘志を持った人物に成長した。
<鈴木貫太郎海軍大将プロフィル>
慶応三年十二月二十四日和泉国大鳥郡久世村(大阪府堺市)生まれ。関宿藩士(代官)の父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名・久世家和泉領代官)、母・きよの長男。由哲には四男四女があり、長男の貫太郎の上の三人は女子、次男は鈴木孝雄陸軍大将、三男は鈴木三郎(久邇宮家御用係)、四男は永田茂陸軍中佐、それに妹がいた。
明治六年(六歳)三月千葉県関宿の久世小学校に入学。
明治十年(十歳)父・由哲の群馬県庁(十四等出仕)就職に伴い群馬県前橋市に転居。桃井小学校に転校。
明治十四年(十四歳)三月桃井小学校卒業。利根中学校(後の群馬中学校)入学。
明治十六年(十六歳)十一月群馬中学校を退学、上京し近藤塾(攻玉社の前進)に入塾(海軍兵学校受験のため)。
明治十七年(十七歳)九月四日海軍兵学校(東京築地)入校。十四期生で六十名。
明治二十年(二十歳)七月五日海軍兵学校卒業(十四期)、少尉候補生。九月二十四日巡洋艦筑波(コルベット・乗員三〇一名・一九四七トン)で遠洋航海(アメリカ・メキシコ・パナマ・南洋タヒチ・ハワイ)。
明治二十一年(二十一歳)八月一日巡洋艦天龍(コルベット・乗員二一〇名・一五二五トン)乗組。
明治二十二年(二十二歳)五月十五日防護巡洋艦高千穂(乗員三二五名・三六五〇トン)乗組。六月二十二日海軍少尉。砲艦天城(木製スループ・乗員一五九名・九一一トン)分隊士。九月三十日巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)分隊士。
明治二十三年(二十三歳)十二月十五日水雷練習生として水雷練習艦迅鯨(じんげい・コルベット・乗員一七〇名・一四六五トン)乗組み。
明治二十四年(二十四歳)七月二十三日海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)分隊士。八月六日砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得。
明治二十五年(二十五歳)十一月二十一日海軍大尉(当時官制には中尉はなかった)。砲艦鳥海分隊長。
明治二十六年(二十六歳)十一月八日横須賀水雷隊攻撃部艇長。
昭和二十七年(二十七歳)七月二十一日三等水雷艇六号(乗員十六名・五四トン)艇長として対馬警備に従事。八月一日日清戦争開戦。十月二日常備艦隊第三水雷艇隊編入。十一月旅順攻略に出動。
明治二十八年(二十八歳)一月日清戦争で水雷艇六号艇長として威海衛攻撃に参加。三月日清戦争終戦。三月二十三日三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)航海長。四月十七日日清講和条約。七月台湾攻略戦参加。
明治二十九年(二十九歳)三月海門佐世保入港。四月三等海防艦比叡(金剛型装甲コルベット・巡洋艦・二番艦・乗員三〇八名・二二五〇トン)航海長兼分隊長。十二月三等海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)航海長。
明治三十年(三十歳)四月六日大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校将校科(砲術)入校。
明治三十一年(三十一歳)五月二日海軍大学校将校科卒業、海軍大学校甲種教程入校。六月二十八日海軍少佐。十二月十九日海軍大学校甲種教程卒業(一期)。軍令部第一局局員、海軍省軍務局軍事課課僚。
明治三十二年(三十二歳)二月一日陸軍大学校兵学教官(兼務)。五月二十五日海軍大学校教官(兼務)。七月二十二日学習院教授(兼務)。
明治三十四年(三十四歳)七月二十九日ドイツ駐在を命ぜられる。九月七日ドイツに向け出発。ヨーロッパ各地を視察。
明治三十六年(三十六歳)九月二十六日海軍中佐。十二月三十日装甲巡洋艦春日(乗員六〇〇名・七六二八トン)回航委員として帰国命令。
明治三十七年(三十七歳)一月八日装甲巡洋艦春日を回航、帰国へ。二月六日日露戦争開戦。二月十六日横須賀帰国、装甲巡洋艦春日副長。九月十二日第五駆逐隊司令。
明治三十八年(三十八歳)一月十四日日露戦争に第四駆逐隊司令として従軍、黄海海戦、五月二十七日~二十九日日本海海戦に参加。九月五日日露講和条約成立。十一月二十一日海軍大学校教官。
明治三十九年(三十九歳)二月七日陸軍大学校兵学教官(兼務)。四月一日日露戦争の功により功三級金鵄勲章並びに年金七百円及び勲三等旭日中綬章。十月二十二日海軍教育本部部員(兼務)。
明治四十年(四十歳)九月十八日海軍大佐。
明治四十一年(四十一歳)九月一日防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長。
明治四十二年(四十二歳)十月一日練習艦隊、巡洋艦宗谷(乗員五七一名・五六〇〇トン)艦長。
明治四十三年(四十三歳)七月二十五日海軍水雷学校長。
明治四十四年(四十四歳)十二月一日戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長。
大正元年(四十五歳)九月十二日巡洋艦筑波(一九四七トン・第二予備艦)艦長。九月十八日とよ夫人逝去、享年三十三歳。
大正二年(四十六歳)五月二十四日海軍少将。八月十日第二艦隊司令官。十一月十五日舞鶴水雷隊司令官。十二月一日海軍省人事局長。
大正三年(四十七歳)四月十七日海軍次官。
大正四年(四十八歳)六月七日足立タカと再婚。
大正五年(四十九歳)四月一日勲一等旭日大綬章。
大正六年(五十歳)六月一日海軍中将。九月一日練習艦隊司令官。
大正七年(五十一歳)十二月一日海軍兵学校長。
大正九年(五十三歳)十二月一日第二艦隊司令長官。
大正十年(五十四歳)十二月一日第三艦隊司令長官。
大正十一年(五十五歳)呉鎮守府司令長官(十四代)。
大正十二年(五十六歳)八月三日海軍大将。
大正十三年(五十七歳)一月二十七日第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官(旗艦長門)。
大正十四年(五十八歳)四月十五日海軍軍令部長。
昭和四年(六十二歳)一月二十二日予備役編入、侍従長に就任。二月十四日枢密院顧問官(兼任)。
昭和九年(六十七歳)勲一等旭日桐花大綬章。
昭和十一年(六十九歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校に銃撃されるも一命は取り留める。十一月侍従長辞任。勲功により男爵を賜る。
昭和十四年(七十二歳)二月から昭和十九年八月まで、二十六回にわたり、青木常盤を相手に「鈴木貫太郎自伝」を語る。
昭和十五年(七十三歳)六月二十四日枢密院副議長。
昭和十九年(七十七歳)八月十日枢密院議長就任。
昭和二十年(七十八歳)四月七日天皇の懇望により内閣総理大臣就任。八月十五日玉音放送のあと内閣総辞職。十二月十五日枢密院議長(再任)。
昭和二十一年(七十九歳)六月三日公職追放冷の対象になり枢密院議長を辞職。八十歳につき天皇より鳩杖を賜う。故郷の千葉県関宿に帰る。故郷では農事研究会などを組織して、農業・略脳の発展に尽くした。
昭和二十三年四月十七日死去。享年八十一歳。関宿町(現・野田市)の実相寺に葬られた。遺灰の中に2.26事件の時に銃撃された弾丸が残っていた。
昭和三十五年終戦に関する功績により従一位を贈位される。
昭和三十八年故郷の千葉県野田市関宿町に鈴木貫太郎記念館が建設された。
鈴木為輔は、安政年間に老中を勤めた久世大和守広周の警護役であったが、元治元年に代官として泉州(和泉国)に移った。
代官の鈴木為輔は、その寛仁さで領民に慕われた。あるとき、農村を巡察中に、百姓が肥桶をひっくり返し、代官である鈴木為輔の衣服を汚すという事件が起きた。
当然にお手討ちを覚悟した百姓に、鈴木為輔は、かたわらの小川で衣服を洗い、「これできれいになった。心配せずともよい」と笑って言ったという。
貫太郎の母、きよは、栃木県佐野の修験道場総本山の住職の三女で、躾は厳しく教育熱心であった。その甲斐あって、子は例外なく英才であった。
母の教育により長男、貫太郎は明治という折目正しい時代においても特に折目正しい男として育った。親孝行で、礼儀正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりしていた。
貫太郎は外へ出て菓子か何かを貰ってくると、「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、その包みをそのまま母親に差し出した。母が「お前がお上がり」と言っても、母が手をつけないかぎり決して食べなかったという。
貫太郎は幼い時から心の中に則を定め、それを超えようとはしない律気を持っていた。己に対しては厳しく、親切で優しかった。
だが鈴木貫太郎は後に、海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた。それほど激しい闘志を持った人物に成長した。
<鈴木貫太郎海軍大将プロフィル>
慶応三年十二月二十四日和泉国大鳥郡久世村(大阪府堺市)生まれ。関宿藩士(代官)の父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名・久世家和泉領代官)、母・きよの長男。由哲には四男四女があり、長男の貫太郎の上の三人は女子、次男は鈴木孝雄陸軍大将、三男は鈴木三郎(久邇宮家御用係)、四男は永田茂陸軍中佐、それに妹がいた。
明治六年(六歳)三月千葉県関宿の久世小学校に入学。
明治十年(十歳)父・由哲の群馬県庁(十四等出仕)就職に伴い群馬県前橋市に転居。桃井小学校に転校。
明治十四年(十四歳)三月桃井小学校卒業。利根中学校(後の群馬中学校)入学。
明治十六年(十六歳)十一月群馬中学校を退学、上京し近藤塾(攻玉社の前進)に入塾(海軍兵学校受験のため)。
明治十七年(十七歳)九月四日海軍兵学校(東京築地)入校。十四期生で六十名。
明治二十年(二十歳)七月五日海軍兵学校卒業(十四期)、少尉候補生。九月二十四日巡洋艦筑波(コルベット・乗員三〇一名・一九四七トン)で遠洋航海(アメリカ・メキシコ・パナマ・南洋タヒチ・ハワイ)。
明治二十一年(二十一歳)八月一日巡洋艦天龍(コルベット・乗員二一〇名・一五二五トン)乗組。
明治二十二年(二十二歳)五月十五日防護巡洋艦高千穂(乗員三二五名・三六五〇トン)乗組。六月二十二日海軍少尉。砲艦天城(木製スループ・乗員一五九名・九一一トン)分隊士。九月三十日巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)分隊士。
明治二十三年(二十三歳)十二月十五日水雷練習生として水雷練習艦迅鯨(じんげい・コルベット・乗員一七〇名・一四六五トン)乗組み。
明治二十四年(二十四歳)七月二十三日海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)分隊士。八月六日砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得。
明治二十五年(二十五歳)十一月二十一日海軍大尉(当時官制には中尉はなかった)。砲艦鳥海分隊長。
明治二十六年(二十六歳)十一月八日横須賀水雷隊攻撃部艇長。
昭和二十七年(二十七歳)七月二十一日三等水雷艇六号(乗員十六名・五四トン)艇長として対馬警備に従事。八月一日日清戦争開戦。十月二日常備艦隊第三水雷艇隊編入。十一月旅順攻略に出動。
明治二十八年(二十八歳)一月日清戦争で水雷艇六号艇長として威海衛攻撃に参加。三月日清戦争終戦。三月二十三日三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)航海長。四月十七日日清講和条約。七月台湾攻略戦参加。
明治二十九年(二十九歳)三月海門佐世保入港。四月三等海防艦比叡(金剛型装甲コルベット・巡洋艦・二番艦・乗員三〇八名・二二五〇トン)航海長兼分隊長。十二月三等海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)航海長。
明治三十年(三十歳)四月六日大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校将校科(砲術)入校。
明治三十一年(三十一歳)五月二日海軍大学校将校科卒業、海軍大学校甲種教程入校。六月二十八日海軍少佐。十二月十九日海軍大学校甲種教程卒業(一期)。軍令部第一局局員、海軍省軍務局軍事課課僚。
明治三十二年(三十二歳)二月一日陸軍大学校兵学教官(兼務)。五月二十五日海軍大学校教官(兼務)。七月二十二日学習院教授(兼務)。
明治三十四年(三十四歳)七月二十九日ドイツ駐在を命ぜられる。九月七日ドイツに向け出発。ヨーロッパ各地を視察。
明治三十六年(三十六歳)九月二十六日海軍中佐。十二月三十日装甲巡洋艦春日(乗員六〇〇名・七六二八トン)回航委員として帰国命令。
明治三十七年(三十七歳)一月八日装甲巡洋艦春日を回航、帰国へ。二月六日日露戦争開戦。二月十六日横須賀帰国、装甲巡洋艦春日副長。九月十二日第五駆逐隊司令。
明治三十八年(三十八歳)一月十四日日露戦争に第四駆逐隊司令として従軍、黄海海戦、五月二十七日~二十九日日本海海戦に参加。九月五日日露講和条約成立。十一月二十一日海軍大学校教官。
明治三十九年(三十九歳)二月七日陸軍大学校兵学教官(兼務)。四月一日日露戦争の功により功三級金鵄勲章並びに年金七百円及び勲三等旭日中綬章。十月二十二日海軍教育本部部員(兼務)。
明治四十年(四十歳)九月十八日海軍大佐。
明治四十一年(四十一歳)九月一日防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長。
明治四十二年(四十二歳)十月一日練習艦隊、巡洋艦宗谷(乗員五七一名・五六〇〇トン)艦長。
明治四十三年(四十三歳)七月二十五日海軍水雷学校長。
明治四十四年(四十四歳)十二月一日戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長。
大正元年(四十五歳)九月十二日巡洋艦筑波(一九四七トン・第二予備艦)艦長。九月十八日とよ夫人逝去、享年三十三歳。
大正二年(四十六歳)五月二十四日海軍少将。八月十日第二艦隊司令官。十一月十五日舞鶴水雷隊司令官。十二月一日海軍省人事局長。
大正三年(四十七歳)四月十七日海軍次官。
大正四年(四十八歳)六月七日足立タカと再婚。
大正五年(四十九歳)四月一日勲一等旭日大綬章。
大正六年(五十歳)六月一日海軍中将。九月一日練習艦隊司令官。
大正七年(五十一歳)十二月一日海軍兵学校長。
大正九年(五十三歳)十二月一日第二艦隊司令長官。
大正十年(五十四歳)十二月一日第三艦隊司令長官。
大正十一年(五十五歳)呉鎮守府司令長官(十四代)。
大正十二年(五十六歳)八月三日海軍大将。
大正十三年(五十七歳)一月二十七日第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官(旗艦長門)。
大正十四年(五十八歳)四月十五日海軍軍令部長。
昭和四年(六十二歳)一月二十二日予備役編入、侍従長に就任。二月十四日枢密院顧問官(兼任)。
昭和九年(六十七歳)勲一等旭日桐花大綬章。
昭和十一年(六十九歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校に銃撃されるも一命は取り留める。十一月侍従長辞任。勲功により男爵を賜る。
昭和十四年(七十二歳)二月から昭和十九年八月まで、二十六回にわたり、青木常盤を相手に「鈴木貫太郎自伝」を語る。
昭和十五年(七十三歳)六月二十四日枢密院副議長。
昭和十九年(七十七歳)八月十日枢密院議長就任。
昭和二十年(七十八歳)四月七日天皇の懇望により内閣総理大臣就任。八月十五日玉音放送のあと内閣総辞職。十二月十五日枢密院議長(再任)。
昭和二十一年(七十九歳)六月三日公職追放冷の対象になり枢密院議長を辞職。八十歳につき天皇より鳩杖を賜う。故郷の千葉県関宿に帰る。故郷では農事研究会などを組織して、農業・略脳の発展に尽くした。
昭和二十三年四月十七日死去。享年八十一歳。関宿町(現・野田市)の実相寺に葬られた。遺灰の中に2.26事件の時に銃撃された弾丸が残っていた。
昭和三十五年終戦に関する功績により従一位を贈位される。
昭和三十八年故郷の千葉県野田市関宿町に鈴木貫太郎記念館が建設された。