陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

282.鈴木貫太郎海軍大将(2)相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ

2011年08月19日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治二十二年九月三十日、鈴木貫太郎少尉は巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)に分隊士として乗組んだ。

 高雄の艦長は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大佐(海兵二・海相・大将・首相・伯爵)、副長は斉藤実(さいとう・まこと)中佐(海兵六・海相・大将・首相・子爵)だった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、山本艦長は暇なときには必ず若い士官と談笑し、海軍を語り、軍人精神を語った。山本艦長の次の様な言葉が残っている。

 「武士は金銭を軽蔑するが、武士も人間だ。霞を食っては生きていけまい。時と場合によっては、上司と意見を異にして辞めなければならんこともある。治にいて乱を忘れずは武士のたしなみだ。平素からその日のことを考えておかねばならん。散財して大人物ぶるのは馬鹿のやることである」。

 一生を通して、鈴木貫太郎は山本艦長の訓えをよく守った。質素にし、治にいて乱を忘れぬ人間を、鈴木は自ら造り上げていった。

 また、山本艦長の言葉として次の様な言葉も残っている。

 「俺は相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ」。

 たくましい体、はちきれそうな若さ、あふれるような温容を持つ鈴木貫太郎の青年士官時代が、この山本艦長の言葉から思い描ける。

 少年時代から心優しさを鈴木は持ち続けていた。常に両親への送金は忘れなかった。遠洋航海から帰ってきた時、誰もが残った手当てを酒などで散財するのに、鈴木は母、きよに銘仙のかすりを買って送った。

 明治二十四年八月六日、鈴木貫太郎少尉は砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得になった。二十四歳だった。

 「終戦時宰相・鈴木貫太郎」(小松茂朗・光人社)によると、明治二十五年、朝鮮の済州島(チェジュとう・さいしゅうとう)で、日本の漁夫が殺されるという事件が起きたので、その談判の命令を受けた仁川(インチョン・じんせん)領事の林権助を砲艦鳥海に乗せて行った。

 いざ出帆というのに、数ヶ月も碇泊していたので、船の周りには全面、牡蠣がついてしまって、船の速力は三ノットしか出なかった。だから潮時を考えて運航しないと、岩にぶっつけるし、途中で嵐にやられたり、散々な目にあった。

 艦長の伊藤常作少佐(海兵三・砲術練習所長・少将)は、これではとても目的地に近づくことはできないからといって、所安島(ソアントウ)に碇泊し、海岸の砂地を見つけていいところに船を乗り上げた。

 この辺りは潮がよく引くから、潮時の三メートル前後のところで、天然のドックにいれ、水兵全員で牡蠣落としをやり、一番ひどかったところの牡蠣を、全部かき取った。

 翌朝、済州島に向け出発した。速力は七ノットも出た。当時の船としては、それが全速力だった。済州島に着いて、船を寄せ、上陸することになった。

 鈴木貫太郎少尉は護衛として、二十人の兵を連れて出発することになった。群衆が敵意の強い、燃えるような目をして上陸地点に近寄ってきた。

 鈴木少尉は、指揮刀を持っていたが、抜けば刃がないのが分かってしまうと思って、心細いが抜かずにいた。

 兵には上陸するとすぐ着剣させた。銃を先方へ向けてかまえた。いつでも戦える体勢である。多数の群集がスーと道の両側によけたので、林領事たち三人のほかに、参判という高い地位の朝鮮政府の役人一行を上陸させた。

 そうして役所のほうへ進んで行くと、朝鮮の兵隊が飴屋のラッパで迎えに来た。旗も立てていたが、昔のままの兵隊で、鉄砲は銃身の長いものだった。

 青龍刀を持って、いかにも伝統そのままの様子だった。着衣も青い空色のが一番の頭、兵隊は赤い色と色分けしてあった。

 役所に着いたら、大門を閉じて、くぐり門から入れ、と言う。大門は制限があって容易には開けないらしかった。

 談判の中で、朝鮮の大官も来ている。鈴木少尉は、日本の天皇陛下の代理で来ているのだ。「開けろ。開けなければ、談判をやらずに、このまま帰って朝鮮政府に報告する」と脅したら、飛んで行って知事に訴え、あわてて大門を開け、驚くほど丁寧になった。

 その間、鈴木少尉は二十人の兵隊に銃をかまえさせて、脅したり、今にも鉄砲を撃ちそうなポーズをとらせた。

 さすがに驚いたのであろう。当方の望みどおりになった。三日ほど考証して、漁夫を殺した事情を調べ、賠償金を出させた。