次に鈴木少佐はコロンスタットに行った。軍港の視察を願い出ると、鎮守府長官・マカロフ提督は喜んで許可し、「今新造の軍艦があるから是非見ていってくれ」と言った。
その軍艦は「スワロフ」だった。艦内に大きな部屋があるので、鈴木少佐が「これは何のために作ったのか?」と訊くと、「ダンスをするため」と答えた。
鈴木少佐は、「これならロシア艦隊も恐れるには当たらぬ」と直感した。ダンスなどやりながら戦技訓練ができるものではない。
また、こんな豪華な部屋を取っている以上、どこか攻撃、防禦に手薄な所があるに違いない。この「スワロフ」は後に旅順港外で海底の藻屑になった。
明治三十六年九月二十六日付で鈴木貫太郎は中佐に進級した。進級の報を受けたのは、露都からベルリンに帰ってきて間もなくだった。
そこで発表された中佐に進級した顔ぶれを見ると、財部彪(たからべ・たけし・海兵一五・海大丙号・大将・海軍大臣)、竹下勇(たけした・いさむ・海兵一五恩賜・海大一・大将・大日本相撲協会会長)、小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう・海兵一五・海大二・大将)の次に鈴木貫太郎(海兵一四・海大一・大将・軍令部長・侍従長・首相・男爵)となっていた。
財部は山本権兵衛の女婿であり、それ相当の力量もあるから、これは致し方ないとしても、竹下、小栗は、鈴木よりも一期あとである。
特に小栗は海軍大学校で師弟の関係にあった。それが自分より右翼の序列で進級しているのには、温厚な鈴木も腹の虫が納まらなかった。
日清戦争では金鵄勲章も貰っていない後輩から追い抜かれたとあっては、憤懣やる方がない。滝川大佐の本省への報告が悪かったにせよ、こんな人事をするような海軍には、一日もいられない。
伊藤乙次郎中佐(海兵一三・海大将校科一恩賜・中将・神戸製鋼所社長)に話すと「自分も嘗てそんな目にあったことがある。君の場合についても何ともいうことはできない」と沈痛な面持ちをした。その当時のことを自伝で鈴木は次の様に述べている。
「こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった。国家にご奉公するのは、何も海軍に限ったことではない。盲目の下で働くよりも、明るい空気の中で働きたいおれは海軍を御免蒙る。病気と称して帰国しようと思うと、伊藤君に言って別れた」
「そして下宿に戻ってみると、父から手紙が来ている。無心であるから中佐になった喜びの手紙で、日露の国交が切迫したから、この時こそ大いに国家の為に尽くさねばならぬというのである」
「この手紙を見た刹那、鉄棒ででも殴られたような気がした。進級が遅いなどと小さなこというのは間違っている。自分が海軍に入ったのは、こういう場合国家のために尽くすためではなかったか」
「父の手紙を見ていかにも自分の至らないのに気がついて、自分の不心得は一ぺんに飛んでしまった。あのとき一時の怒りに駆られて帰って来ていたなら、今日の鈴木貫太郎はいなかったことになったであろう。無心に書かれた父の手紙によって、私は救われた」
鈴木の人生行路のうちで、これも危険な時期だった。だが、中央部にも盲目ばかりがいたのではない。大佐に進級するときは。鈴木は正当な序列に戻っていた。
日清戦争によって、日本が清国から割譲を受けた遼東半島は、その後ロシアによって横奪された。ロシアは東清鉄道のハルピンから、旅順、大連への支線を敷設し、旅順には堅固な要塞を築城し、東洋艦隊の根拠地としてしまった。
これでロシアは浦塩(うらじお)と呼応して日本海、勃海(ぼっかい)湾の制海権を確立した。さらにロシアは明治三十三年の義和団事件に出兵した兵力を事件が解決した後も満州に駐留させ、南北満州は事実上ロシアの傘下に入れてしまった。
その上、ロシアは爪牙(そうが・ツメとキバ)を北朝鮮に伸ばして、朝鮮をも併合しようとする野心が露骨に見えてきた。
これでは、日本はまるで煮え湯を呑まされた格好である。フランスも、ドイツも、そしてイギリスまで中国の要地を租借名義で占領したのだから、日本人の憤激はその極に達した。
その中で、イギリスは、ロシアの野望を早く破砕しておかねばならぬと、明治三十五年、日本と日英同盟条約を締結した。このようにして、日露の衝突は必至の情勢となった。
東洋制覇を目指すロシアの南下で、日本は一刻の猶予をも許さないギリギリのところに追い詰められていた。
ロシアは日本に鎧袖一触(がいしゅういっしょく・一撃で簡単に敵を負かす)、遮二無二挑戦してきた。回避しようとすれば日本は完全にロシア帝国の一部にされる危険にさらされていた。
それでも、明治天皇以下政府も軍部も一体となって対露政策に慎重を期し、かりそめにも軽率の謗りを受けないように準備してきた。
大事をとって戦争に突入したが、ロシアは世界最強の陸軍国、海軍も日本帝国海軍を凌駕する大勢力を持っていた。
その軍艦は「スワロフ」だった。艦内に大きな部屋があるので、鈴木少佐が「これは何のために作ったのか?」と訊くと、「ダンスをするため」と答えた。
鈴木少佐は、「これならロシア艦隊も恐れるには当たらぬ」と直感した。ダンスなどやりながら戦技訓練ができるものではない。
また、こんな豪華な部屋を取っている以上、どこか攻撃、防禦に手薄な所があるに違いない。この「スワロフ」は後に旅順港外で海底の藻屑になった。
明治三十六年九月二十六日付で鈴木貫太郎は中佐に進級した。進級の報を受けたのは、露都からベルリンに帰ってきて間もなくだった。
そこで発表された中佐に進級した顔ぶれを見ると、財部彪(たからべ・たけし・海兵一五・海大丙号・大将・海軍大臣)、竹下勇(たけした・いさむ・海兵一五恩賜・海大一・大将・大日本相撲協会会長)、小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう・海兵一五・海大二・大将)の次に鈴木貫太郎(海兵一四・海大一・大将・軍令部長・侍従長・首相・男爵)となっていた。
財部は山本権兵衛の女婿であり、それ相当の力量もあるから、これは致し方ないとしても、竹下、小栗は、鈴木よりも一期あとである。
特に小栗は海軍大学校で師弟の関係にあった。それが自分より右翼の序列で進級しているのには、温厚な鈴木も腹の虫が納まらなかった。
日清戦争では金鵄勲章も貰っていない後輩から追い抜かれたとあっては、憤懣やる方がない。滝川大佐の本省への報告が悪かったにせよ、こんな人事をするような海軍には、一日もいられない。
伊藤乙次郎中佐(海兵一三・海大将校科一恩賜・中将・神戸製鋼所社長)に話すと「自分も嘗てそんな目にあったことがある。君の場合についても何ともいうことはできない」と沈痛な面持ちをした。その当時のことを自伝で鈴木は次の様に述べている。
「こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった。国家にご奉公するのは、何も海軍に限ったことではない。盲目の下で働くよりも、明るい空気の中で働きたいおれは海軍を御免蒙る。病気と称して帰国しようと思うと、伊藤君に言って別れた」
「そして下宿に戻ってみると、父から手紙が来ている。無心であるから中佐になった喜びの手紙で、日露の国交が切迫したから、この時こそ大いに国家の為に尽くさねばならぬというのである」
「この手紙を見た刹那、鉄棒ででも殴られたような気がした。進級が遅いなどと小さなこというのは間違っている。自分が海軍に入ったのは、こういう場合国家のために尽くすためではなかったか」
「父の手紙を見ていかにも自分の至らないのに気がついて、自分の不心得は一ぺんに飛んでしまった。あのとき一時の怒りに駆られて帰って来ていたなら、今日の鈴木貫太郎はいなかったことになったであろう。無心に書かれた父の手紙によって、私は救われた」
鈴木の人生行路のうちで、これも危険な時期だった。だが、中央部にも盲目ばかりがいたのではない。大佐に進級するときは。鈴木は正当な序列に戻っていた。
日清戦争によって、日本が清国から割譲を受けた遼東半島は、その後ロシアによって横奪された。ロシアは東清鉄道のハルピンから、旅順、大連への支線を敷設し、旅順には堅固な要塞を築城し、東洋艦隊の根拠地としてしまった。
これでロシアは浦塩(うらじお)と呼応して日本海、勃海(ぼっかい)湾の制海権を確立した。さらにロシアは明治三十三年の義和団事件に出兵した兵力を事件が解決した後も満州に駐留させ、南北満州は事実上ロシアの傘下に入れてしまった。
その上、ロシアは爪牙(そうが・ツメとキバ)を北朝鮮に伸ばして、朝鮮をも併合しようとする野心が露骨に見えてきた。
これでは、日本はまるで煮え湯を呑まされた格好である。フランスも、ドイツも、そしてイギリスまで中国の要地を租借名義で占領したのだから、日本人の憤激はその極に達した。
その中で、イギリスは、ロシアの野望を早く破砕しておかねばならぬと、明治三十五年、日本と日英同盟条約を締結した。このようにして、日露の衝突は必至の情勢となった。
東洋制覇を目指すロシアの南下で、日本は一刻の猶予をも許さないギリギリのところに追い詰められていた。
ロシアは日本に鎧袖一触(がいしゅういっしょく・一撃で簡単に敵を負かす)、遮二無二挑戦してきた。回避しようとすれば日本は完全にロシア帝国の一部にされる危険にさらされていた。
それでも、明治天皇以下政府も軍部も一体となって対露政策に慎重を期し、かりそめにも軽率の謗りを受けないように準備してきた。
大事をとって戦争に突入したが、ロシアは世界最強の陸軍国、海軍も日本帝国海軍を凌駕する大勢力を持っていた。