陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

287.鈴木貫太郎海軍大将(7)シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た

2011年09月23日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 日露戦争は、明治三十七年二月八日、旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本帝国海軍の駆逐艦隊の攻撃から始まった。

 鈴木貫太郎中佐の初陣は八月十日の黄海海戦だった。日本軍の旅順砲撃を受けて、ロシアの旅順艦隊は旅順港を出撃した。

 その旅順艦隊と司令長官・東郷平八郎大将(英国商船学校卒・軍令部長・元帥・大勲位・功一級・侯爵)率いる日本帝国海軍連合艦隊との間で黄海海戦が行われた。鈴木中佐は装甲巡洋艦春日(乗員五六二名・七七〇〇トン)の副長として参戦した。

 春日は第一会戦で敵巡洋艦アスコリートを砲撃、撃破し戦列を離れさせた。第二会戦でロシア旅順艦隊は大損害を受け支離滅裂に遁走した。

 黄海海戦後、九月一日、鈴木中佐は第二艦隊所属の第五駆逐隊司令に転補した。第五駆逐隊は旗艦不知火(三二六トン)以下四隻で編成されていた。四隻とも三〇〇余トンの三等駆逐艦だった。

 鈴木中佐は裏長山泊地で連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将に転補の申告をし、参謀長・島村早雄(しまむら・はやお)少将(海兵七・軍令部長・元帥・勲一等・功二級・男爵)に挨拶した。

 鈴木中佐が、「何か訓令を受けることはありませんか」と伺うと、島村少将は鈴木中佐の手を握り、「別に何もないが全予て君の説通り十分やって貰いたい」と言った。

 そのあと参謀室に行った鈴木中佐は、有馬良橘(ありま・りょうきつ)大佐(海兵一二・大将・教育本部長・枢密顧問官・明治神宮宮司)、秋山真之(あきやま・さねゆき)中佐(海兵一七首席・中将)、松村菊勇(まつむら・きくお)大尉(海兵二三・海大五・中将・石川島造船社長)らに会って、島村少将の話をすると、「それにはこんな理由がある」と説明してくれた。

 彼らの説明によると、駆逐艦も水雷艇も甚だ成績が悪い。それは先年、軍令部が水雷の射程を延ばして速力を落としてしまったので、既に海軍所持の水雷の半分以上も使い果たしたのに、一向成績が上がらない。

 そこで軍事課にいたときの鈴木説が漸く人々の記憶から甦り、鈴木を起用して再び日清戦争のときの「鬼貫太郎」の面目を発揮させねばならぬということになったのだという。

 つまり、小さな駆逐艦や水雷艇で巨艦を屠(ほふ)ろうというのだから、一種の肉弾戦法である。遠距離から身の安全を期して発射する魚雷がうまく命中するはずはない。

 これを聞いて鈴木中佐は、一本の魚雷が寒気のため発射できなかったのに責任を感じ自刃する程、真剣な気持ちで日清戦争時代には戦ったのだ。よし、もう一度水雷に生命を吹き込んでやろうと、深く期することがあって司令艦に戻った。

 明治三十八年一月十四日、鈴木中佐は第四駆逐隊司令に転補され、五月二十七日~二十八日の日本海海戦に参加した。

 鈴木中佐は駆逐艦四隻を率いて、敵艦に水雷攻撃を行いロシアのバルチック艦隊旗艦、戦艦スワロフに魚雷を命中させ。そのほか一隻を魚雷攻撃で撃沈、もう一隻に魚雷を命中させた。

 日本海海戦は、日本帝国海軍の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本の大勝利に終わった。ロシアの海上勢力はほとんど全滅した。

 鈴木中佐は駆逐隊を率いて五月三十日、佐世保に入港、東郷連合艦隊司令長官に戦争の経過を報告した。

 東郷司令長官は鈴木中佐の報告を聞くと「いや、あなたの攻撃されている状況はよく見ていました」と言った。それから東郷司令長官は三十分位、諄諄(じゅんじゅん)と戦争の経過を語った。

 鈴木中佐は、東郷司令長官は、いつも黙っている人なのだが、実際は雄弁な人だなと思った。東郷司令長官は海軍大学校長をしていたことがある。鈴木中佐はその頃学生だったから、親しみを一層感じられたのかもしれないと思った。

 とにかく、先にも後にも、こんなに喜んで雄弁に語った東郷司令長官を見たことはなかった。鈴木中佐には忘れられない感激だった。

 東郷司令長官に報告後、秋山参謀に会うと、鈴木中佐に次の様に言った。

 「君の報告でシソイベリキー、ナバリンの二隻をやったことは明瞭だ。然し、会議の席上、シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た」

 「皆で攻撃したのだから嘘ではあるまい。君のところだけで二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」

 これを聞いて、鈴木中佐は、秋山参謀らしい言い分だったので、「宜しい」と言った。