陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

433.乃木希典陸軍大将(13)まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない

2014年07月11日 | 乃木希典陸軍大将
 鹿児島の城下に、医者を本業にしていて、儒学を教えていた、湯地定之という者がいた。長男の湯地定基は後に元老院議官から貴族院議員になっている。次男の定廉は海軍大尉で早死にしたが、三男の定監は海軍機関中将から貴族院議員になった。

 湯地定之には、娘も四人いて、四人目の娘が名を志知といい、お七と呼ばれていた。お七は安政六年十一月十七日生まれで、十四歳の時、東京へ移り、長男の湯地定基の家で女としての躾を厳しく受け、麹町女学校を卒業した。

 長男の湯地定基と伊瀬知大尉は、同国人という関係から、親しく交わって来た。伊瀬知大尉は、相談があるからといって、湯地定基を訪ねた。

 「お七さんに、この上もない相手があるのじゃが、相談に応じてくれまいか」と伊瀬知大尉が言うと、相手次第だし、生涯に関することだから、容易に定めることは出来ぬ。お七も嫁入る気があるかどうか、それを聞いてからにしたい」と湯地定基は答えた。

 さらに、湯地定基は「相手の名は聞かずともよいが、どういう身分の人か、というだけは、聞いておきたい」と問うたので、伊瀬知大尉は「陸軍中佐で、連隊長をしている人じゃ。年は三十一歳で、初婚だ」と答えた。

 「三十歳にもなって初婚というのはどういう理由か」と湯地定基が訊くと、「老母がいて、昔の武士気質の人で、普通の嫁を貰っても、容易に治まるまい、という懸念があって、いろいろ勧められても、今まで堪えていたので、遅れたのだ。その外に何の理由もない」と伊瀬知大尉は言った。

 「よく判りました。両三日のうちに、御返事を申し上げましょう」と湯地定基は言ってから、伊瀬知大尉に食事をすすめた。

 御馳走が出た。お七も杯盤(酒席の道具)の周旋(世話をする)をしていたが、その一挙一動が、テキパキとしていて、普通の女によく見る、やさし味には乏しいが、何となく淡泊としていて、気持ちが良い女性だった。

 三日後に湯地定基から来てくれとの手紙が届いたので、伊瀬知大尉は再び訪問した。湯地定基はお七に、「本人は良いようじゃが、母御というのが、余程むづかしい御方のように思われる。お前はどう思うか」と訊いた。

 すると、お七は「どうせ、お年寄りというのは、やかましいに極まっております。ほどよくお仕え申しましたら、左程のこともありますまい」と答えた。

 それで、湯地定基が伊瀬知大尉に、本人の身上について、聞いてみると、意外にも、「その本人というのは、乃木中佐である」と言うので、大いに喜んだ。

 次は、乃木中佐の方だった。伊瀬知大尉が、先方の家庭状況と、娘・志知(お七)の身上を話始めると、乃木中佐は「よく判った。それを定めてくれ」と言った。

 伊瀬知大尉が、あわてて、「まだ詳しいことは申し上げて御座いませぬ。年は…」と言いはじめると、乃木中佐は「もうよろしい。その上の事は聞かずとも、君がよい、と思ったら、それでよい。君を信じる」と言ったので、さすがに、伊瀬知大尉も驚いた。

 だが、伊瀬知大尉は、乃木中佐からこれほど信用されたなら、骨折りの甲斐があると思った。「それでは、お見合いの式を、どういう風にいたしますか。その点について…」と伊瀬知大尉がお見合いの段取りに入ると、乃木中佐は、「そんなことは、止めたらどうじゃ」と言った。

 伊瀬知大尉が驚いて、「見合いは止めるのですか?」と問い返すと、「俺も一度、友人のために、その式という者に立ち会って見たが、まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない。虚礼のようなものじゃ」と言った。

 あわてて、伊瀬知大尉が「ごもっともでございますが、昔からの習慣ですから、やはり、一通りのことは、やっておくほうが良いと思います」と力説すると、乃木中佐は「君に任せるのじゃから、あえて反対はしないが、式をやるにしても、簡単にしてくれ」と答えた。

 見合いをどういう風にするか、伊瀬知大尉は悩んだ。乃木中佐は見合いを嫌っているので、都合のよい方法を考えなければならなかった。

 不意に思いついたのは、伊瀬知大尉の新宅が完成したので、郷里の先輩や親友を招いて、一夕の宴を張ることになっていたので、これを利用して、乃木中佐も招き、お七の方も呼んで、それとなく、見せ合えばよい、と考えた。