杉浦少佐は結局、嫌疑だけで罪にはならなかった。ほかの関係各師団でも戦争で功労を立ててきた者たちであるから、多少の事はあっても大目に見ようという態度であって、忌まわしい事件で彼らの将来を失わしめることのないように努力して事件は大きく発展しなかった。
丸亀の第一二連隊長・斎藤徳明大佐は、杉浦少佐を弁明して、「嫌疑を受けたとはいっても、有罪になったのではありませんから、師団長が引責辞任されては、彼の罪を認めたという印象を世間に与えます。是非思いとどまってください」と乃木師団長に進言した。
しかし乃木師団長は聞き入れなかった。「有罪になったとか、ならなかったということではない。軍人は嫌疑を受けたという事で責任を感じなければいけない。しかしお前が言うように、私が辞職をしたことで部下の有罪を認めたという印象を世間に与えるというのが面白くないというのなら、私は病気のためということで辞職しよう」と乃木師団長は答えた。
乃木師団長は、表向きの理由は、リュウマチスで起居不自由につき、として辞表を提出した。しかしこのことはよく中央でもわかっているのでなかなか聴許がおりなかった。やむを得ず、乃木師団長は湯治湯に行って一か月半も司令部に顔を出さなかった。
こうなっては軍上層部としても乃木師団長の依願免職を認めないわけにはいかなかった。こうして休職となって乃木中将は四度、野に下った。
乃木中将は自分のものとなった時間を那須野に行って耕作をしたり、土地の人たちと地酒を酌み交わしたり、東京にあっては読書に日を送り、又旅行に出かけたり、戦死したかつての部下の墓標を書いたりして、穏やかな生活を続けていた。
しかし陸軍部内では、乃木中将を知っている者も少なくなかった。乃木中将のような清廉潔白な勇将をこんなことで腐らしてしまってはならないという声が起こっていた。
明治三十五年に陸軍大臣となった寺内正毅(てらうち・まさたけ)大将(山口・戊辰戦争・西南戦争・フランス留学兼駐在武官・陸軍士官学校長・日清戦争で運輸通信長官・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・教育総監・参謀次長・陸軍大臣・大将・子爵・第三代韓国統監・朝鮮総督・伯爵・元帥・首相・功一級金鵄勲章・レジオンドヌール勲章オフィシェ)は、乃木中将と同じ長州藩出身だった。
寺内大将は乃木中将の隠栖(いんせい)を最も惜しむ一人だった。そこで乃木中将を官邸に呼んで再び現役に戻れと数時間に渡って説得した。
しかし頑固な乃木中将は首をたてにふらなかった。乃木中将の言い分は、「陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ。断固たる廓清ができない間は戻らない」と、かえって粛軍することを強く要望した。
乃木中将の最後の休職期間は二年九か月だった。乃木中将が現役に復帰したのは日露戦争が勃発したからであった。
日露戦争が、迫っていた。陸軍では近衛第一二師団をもって一軍を編成し、黒木為(くろき・ためとも)大将(鹿児島・戊辰戦争・広島鎮台第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・日露戦争で第一軍司令官・伯爵・枢密顧問官・功一級金鵄勲章)が軍司令官となった。
近衛師団が動員下令で出征が決まったので、乃木中将は留守近衛師団長として復職したのである。日本が国運をかけて大国ロシアと戦うというときである。この時乃木中将は五十五歳だった。
明治三十七年二月八日旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃で日露戦争は開戦した。この攻撃でロシアの艦艇数隻に損害を与えたが、大きな戦果はなかった。
五月二日、乃木希典中将は第三軍司令官に任命された。そして、六月六日乃木中将は陸軍大将に昇進した。
六月二十二日、第三軍司令官・乃木大将は、まず第一一師団を進めて、剣山、歪頭山を陥落させた。七月三日、敵の必死の逆襲を退け、営城子、偏石柳子付近、大白山付近を占領した。そして七月三十日には、はやくも敵の旅順第二防御線である大狐山東方の高地一帯も占領した。
八月に入ると、八月七日、八日、九日の三日間の戦いで、大狐山、小狐山の要害が陥落した。十四日には干大山から北東溝北方高地、随家屯西方高地に渡る戦域を占領した。十五日には爺盤南方、小東満東北高地を陥落させた。これにより第三防御陣地も突破した。
こうなると、旅順は目の前であった。旅順は裸にされたも同然だった。日本軍は旅順何するものかとの自信を大いに強くした。乃木大将も攻略に自信を持っていた。
丸亀の第一二連隊長・斎藤徳明大佐は、杉浦少佐を弁明して、「嫌疑を受けたとはいっても、有罪になったのではありませんから、師団長が引責辞任されては、彼の罪を認めたという印象を世間に与えます。是非思いとどまってください」と乃木師団長に進言した。
しかし乃木師団長は聞き入れなかった。「有罪になったとか、ならなかったということではない。軍人は嫌疑を受けたという事で責任を感じなければいけない。しかしお前が言うように、私が辞職をしたことで部下の有罪を認めたという印象を世間に与えるというのが面白くないというのなら、私は病気のためということで辞職しよう」と乃木師団長は答えた。
乃木師団長は、表向きの理由は、リュウマチスで起居不自由につき、として辞表を提出した。しかしこのことはよく中央でもわかっているのでなかなか聴許がおりなかった。やむを得ず、乃木師団長は湯治湯に行って一か月半も司令部に顔を出さなかった。
こうなっては軍上層部としても乃木師団長の依願免職を認めないわけにはいかなかった。こうして休職となって乃木中将は四度、野に下った。
乃木中将は自分のものとなった時間を那須野に行って耕作をしたり、土地の人たちと地酒を酌み交わしたり、東京にあっては読書に日を送り、又旅行に出かけたり、戦死したかつての部下の墓標を書いたりして、穏やかな生活を続けていた。
しかし陸軍部内では、乃木中将を知っている者も少なくなかった。乃木中将のような清廉潔白な勇将をこんなことで腐らしてしまってはならないという声が起こっていた。
明治三十五年に陸軍大臣となった寺内正毅(てらうち・まさたけ)大将(山口・戊辰戦争・西南戦争・フランス留学兼駐在武官・陸軍士官学校長・日清戦争で運輸通信長官・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・教育総監・参謀次長・陸軍大臣・大将・子爵・第三代韓国統監・朝鮮総督・伯爵・元帥・首相・功一級金鵄勲章・レジオンドヌール勲章オフィシェ)は、乃木中将と同じ長州藩出身だった。
寺内大将は乃木中将の隠栖(いんせい)を最も惜しむ一人だった。そこで乃木中将を官邸に呼んで再び現役に戻れと数時間に渡って説得した。
しかし頑固な乃木中将は首をたてにふらなかった。乃木中将の言い分は、「陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ。断固たる廓清ができない間は戻らない」と、かえって粛軍することを強く要望した。
乃木中将の最後の休職期間は二年九か月だった。乃木中将が現役に復帰したのは日露戦争が勃発したからであった。
日露戦争が、迫っていた。陸軍では近衛第一二師団をもって一軍を編成し、黒木為(くろき・ためとも)大将(鹿児島・戊辰戦争・広島鎮台第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・日露戦争で第一軍司令官・伯爵・枢密顧問官・功一級金鵄勲章)が軍司令官となった。
近衛師団が動員下令で出征が決まったので、乃木中将は留守近衛師団長として復職したのである。日本が国運をかけて大国ロシアと戦うというときである。この時乃木中将は五十五歳だった。
明治三十七年二月八日旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃で日露戦争は開戦した。この攻撃でロシアの艦艇数隻に損害を与えたが、大きな戦果はなかった。
五月二日、乃木希典中将は第三軍司令官に任命された。そして、六月六日乃木中将は陸軍大将に昇進した。
六月二十二日、第三軍司令官・乃木大将は、まず第一一師団を進めて、剣山、歪頭山を陥落させた。七月三日、敵の必死の逆襲を退け、営城子、偏石柳子付近、大白山付近を占領した。そして七月三十日には、はやくも敵の旅順第二防御線である大狐山東方の高地一帯も占領した。
八月に入ると、八月七日、八日、九日の三日間の戦いで、大狐山、小狐山の要害が陥落した。十四日には干大山から北東溝北方高地、随家屯西方高地に渡る戦域を占領した。十五日には爺盤南方、小東満東北高地を陥落させた。これにより第三防御陣地も突破した。
こうなると、旅順は目の前であった。旅順は裸にされたも同然だった。日本軍は旅順何するものかとの自信を大いに強くした。乃木大将も攻略に自信を持っていた。