金髪「勝敗は時の運だよ。敵将が戦死するところも見たのか?」。
東郷「銃撃の弾丸が当たったんだ。無念の絶叫がすぐ近くの我が艦まで聞こえて来た」。
金髪「得難い経験をしたんだね。君が戦争に加わっていたとは知らなかった」。
東郷見習士官が「回天」の甲賀艦長の体当たり戦術を金髪の練習生に語った時から、金髪の練習生は東郷見習士官に尊敬の目を向け始めた。
金髪の練習生が周りの練習生たちにしゃべったらしく、一週間もたつと、東郷見習士官は、弾丸の下をくぐり抜けた立派な戦士として特別扱いをうけるようになった。
「チャイナマン」とあざけ笑う事も無くなったし、イギリスの練習生たちは、剣の道に優れた勇敢な日本人が、我がウースターに乗っているとして、東郷見習士官を一目も二目も置く態度に一変した。
だが、東郷見習士官は、甲賀艦長の勇敢さは自らを励ます教訓として、いつも心の中に大事な教訓としてしまって置きたかったのに、つい口外してしまったのが意外な結果になり、面映ゆかった。余計なことは喋らないほうがいいと、東郷見習士官は思うようになった。
明治七年十二月九日、ウースター商船学校を卒業した東郷見習士官は、明治八年二月から、帆船「ハンプシャー」でオーストラリアまで、海軍士官候補生たちと共に遠洋航海に出た。
五月十四日、オーストラリアのメルボルンに到着。二か月近くメルボルンに滞在して、七月十一日に出帆、進路を東に帆走を続け、八月十一日南アメリカの南端ホーン岬の南を通過し、九月末にテームズ河口に無事に帰着した。
その後ロンドンで、高等数学をゲーベル教授から教わり留学生として最後の勉学に励みながら、帰国命令を待った。
明治九年四月十四日付で東郷見習士官の留学はすでに満期切れとなっているが、「新軍艦が完成するまで、英国滞在を申付ける」との命令を受けた。
グリニッジに移った東郷見習士官は、新造の戦艦「扶桑」の建造の監視に当たった。留学生はそれぞれ分担しあって、新造艦の監視に当たった。
明治十一年二月、イギリスの造船所において、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」が竣工した。「扶桑は」の試運転はシャーネス沖で行われた。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷平八郎見習士官は、その「扶桑」の試運転に同乗した。
「扶桑」は段階を経て、スピードを上げた。「扶桑」は、ぐんぐんスピードを増し、それに加速さえ加わった。機関の調子は快適だった。東郷見習士官は操舵室にいて、それを逐一感得した。
「これで最高速か?」と東郷見習士官はイギリス人の航海士にたずねた。「いや、二番目の高速だ」と航海士は答えた。すると、東郷見習士官は「最高速を出してみてくれ」と言った。「これで十分だろう。これだけ出せば、問題はない」と航海士は答えた。
東郷見習士官は「駄目だ、最高速を出せ」と毅然として命じた。航海士は東郷見習士官の顔をチラッと見て、何ごとかブツブツ言っていたが、それでも東郷見習士官の命に従った。
機関はうなりを生じ、「扶桑」は飛ぶように走った。そして二十分。東郷見習士官はそれに満足して、艦速をゆるめさせた。航海士は東郷見習士官をなじるように見た。「それ見たことか、異常はないじゃないか」。
東郷見習士官は、それを無視した。東郷見習士官には信念があった。こと海戦になれば、その艦の機能をフルに活用しなければならない。それが試運転だからといって、その艦の持てる機能を確認しないという法は無いと。
東郷見習士官ら留学生九人に帰国命令が出され、九人は、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦に三人ずつそれぞれ分乗して帰国の途についた。
明治十一年三月二十三日、東郷見習士官は「比叡」に乗艦して、英国を出航した。マルタ、ポートサイト、アデン、シンガポールに寄港した後、五月二十二日午前、「比叡」は横浜に入港した。
別冊歴史読本第六十号「日本海海戦と東郷平八郎」(新人物往来社)所収、「東郷平八郎・連合艦隊長官を無言で演じきった名優」(鎌田芳朗)によると、東郷平八郎の英国留学の真実について、次に様に述べている。
東郷は明治四年二月、英留学を命ぜられ、正味八年間滞在することになった。
東郷「銃撃の弾丸が当たったんだ。無念の絶叫がすぐ近くの我が艦まで聞こえて来た」。
金髪「得難い経験をしたんだね。君が戦争に加わっていたとは知らなかった」。
東郷見習士官が「回天」の甲賀艦長の体当たり戦術を金髪の練習生に語った時から、金髪の練習生は東郷見習士官に尊敬の目を向け始めた。
金髪の練習生が周りの練習生たちにしゃべったらしく、一週間もたつと、東郷見習士官は、弾丸の下をくぐり抜けた立派な戦士として特別扱いをうけるようになった。
「チャイナマン」とあざけ笑う事も無くなったし、イギリスの練習生たちは、剣の道に優れた勇敢な日本人が、我がウースターに乗っているとして、東郷見習士官を一目も二目も置く態度に一変した。
だが、東郷見習士官は、甲賀艦長の勇敢さは自らを励ます教訓として、いつも心の中に大事な教訓としてしまって置きたかったのに、つい口外してしまったのが意外な結果になり、面映ゆかった。余計なことは喋らないほうがいいと、東郷見習士官は思うようになった。
明治七年十二月九日、ウースター商船学校を卒業した東郷見習士官は、明治八年二月から、帆船「ハンプシャー」でオーストラリアまで、海軍士官候補生たちと共に遠洋航海に出た。
五月十四日、オーストラリアのメルボルンに到着。二か月近くメルボルンに滞在して、七月十一日に出帆、進路を東に帆走を続け、八月十一日南アメリカの南端ホーン岬の南を通過し、九月末にテームズ河口に無事に帰着した。
その後ロンドンで、高等数学をゲーベル教授から教わり留学生として最後の勉学に励みながら、帰国命令を待った。
明治九年四月十四日付で東郷見習士官の留学はすでに満期切れとなっているが、「新軍艦が完成するまで、英国滞在を申付ける」との命令を受けた。
グリニッジに移った東郷見習士官は、新造の戦艦「扶桑」の建造の監視に当たった。留学生はそれぞれ分担しあって、新造艦の監視に当たった。
明治十一年二月、イギリスの造船所において、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」が竣工した。「扶桑は」の試運転はシャーネス沖で行われた。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷平八郎見習士官は、その「扶桑」の試運転に同乗した。
「扶桑」は段階を経て、スピードを上げた。「扶桑」は、ぐんぐんスピードを増し、それに加速さえ加わった。機関の調子は快適だった。東郷見習士官は操舵室にいて、それを逐一感得した。
「これで最高速か?」と東郷見習士官はイギリス人の航海士にたずねた。「いや、二番目の高速だ」と航海士は答えた。すると、東郷見習士官は「最高速を出してみてくれ」と言った。「これで十分だろう。これだけ出せば、問題はない」と航海士は答えた。
東郷見習士官は「駄目だ、最高速を出せ」と毅然として命じた。航海士は東郷見習士官の顔をチラッと見て、何ごとかブツブツ言っていたが、それでも東郷見習士官の命に従った。
機関はうなりを生じ、「扶桑」は飛ぶように走った。そして二十分。東郷見習士官はそれに満足して、艦速をゆるめさせた。航海士は東郷見習士官をなじるように見た。「それ見たことか、異常はないじゃないか」。
東郷見習士官は、それを無視した。東郷見習士官には信念があった。こと海戦になれば、その艦の機能をフルに活用しなければならない。それが試運転だからといって、その艦の持てる機能を確認しないという法は無いと。
東郷見習士官ら留学生九人に帰国命令が出され、九人は、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦に三人ずつそれぞれ分乗して帰国の途についた。
明治十一年三月二十三日、東郷見習士官は「比叡」に乗艦して、英国を出航した。マルタ、ポートサイト、アデン、シンガポールに寄港した後、五月二十二日午前、「比叡」は横浜に入港した。
別冊歴史読本第六十号「日本海海戦と東郷平八郎」(新人物往来社)所収、「東郷平八郎・連合艦隊長官を無言で演じきった名優」(鎌田芳朗)によると、東郷平八郎の英国留学の真実について、次に様に述べている。
東郷は明治四年二月、英留学を命ぜられ、正味八年間滞在することになった。